水蓮の紋章 ―ロータスエンブレム―




#5 「契約」



 これ以上ないほど深い黒髪はシルクのように滑らかに肩から背中に流れている。冬の湖沼のように冷たく蒼い瞳。切れ長の目尻の下には泣きほくろが2つある。雪のように白い肌。ナイフのような鋭い印象を与える美貌の持ち主は火のついた煙草を咥えていた。
 ぴったりとしたスーツにタイトスカート、そしてすらりと長い脚を美しく引き立てる黒のストッキング。一流のキャリアウーマンのような出で立ちである。この場所、巨大企業ジャイグロのエントランスには相応しい服装だといえる。
 しかし、彼女――ネイル・スカルグラップはジャイグロに勤めるオフィスガールなどではなかった。
 ネイルは喫煙所に何気なく置かれた企業のパンフレットを見ながら、すぱーと有害物質がふんだんに含まれた煙を吐き出した。
「うちの会社の人じゃないですよね」
 馴れ馴れしい口調の男がネイルに話しかけてきた。ネイルはちらりと一瞥しただけ。視線は再びパンフレットの文字を追っている。
「隣、いいですか?」
 了承していないというに男はネイルの隣に腰かけた。
「今日は取引か何かの仕事で?」
 ネイルは無視した。しかし、男はめげずにネイルに話題を振る。ネイルの美貌を褒め称えるものから、吸っている煙草の種類を聞くなどの簡単な質問、聞いてもいないに自己紹介を始めたところでネイルが顔を上げた。
 ようやく努力が実ったと勘違いしたのか男は爽やかな笑顔を浮かべた。が、次の瞬間、その笑顔が凍りつく。
「今すぐ私の前から消えろ、若ハゲ」
 透き通った綺麗な声で、汚い言葉が紡ぎだされた。
 男の笑顔が歪む。狼狽、混乱、憤怒――といった感情が顔の端々に表れる。ネイルはにやり、と邪悪な笑みを浮かべた。美貌が台無しになるような悪魔的なわらいだ。
「くっくっく。図星か。当てずっぽうに言ったつもりだがこれは面白い」
 猫が弱ったネズミを簡単に殺さず、散々嬲ったあと殺すことがあるらしい。それは食物を得るための狩りではなく、退屈を紛らわすための遊びだ。男は自分がそのネズミになったような錯覚を覚えた。
 とんでもない女に声をかけてしまった、と後悔する。綺麗なバラには棘があるとよく言うが、この黒いバラはそんなレベルではない。触れる前に自ら棘を撃ち出し毒を注入する。悪魔が育てたかのような邪悪な花だ。
 引きつった表情を浮かべた男は「あっと、もうこんな時間か」とわざとらしく言って、そさくさとネイルから逃げ出した。
 ネイルは短くなった煙草を灰皿に押し付け、真新しい煙草を口に咥えた。






 フロア中には貴重な天然の毛をふんだんにつかったカーペットが敷きつめられている。壁は見るからに高級そうな黒檀。最高級の皮で作られた椅子にノルン・ハーミットは腰をかけていた。
 隣にはスーツに着替えたグスターが座っている。ネクタイに締められた首元が窮屈そうだ。鍛え上げられた太い首がシャツを押し広げている。
「ネイルはどこに行ったんだ?」
 空席になっている椅子を見ながらグスターが言った。
「化粧を直しにいきましたよ」
「遅くないか?」
「遅い……ですね」
 ノルンが執務室の出口を振り返った。扉が開く。スーツ姿の中年の男が入ってきた。ジャイグロ社専務オーランの秘書官である。秘書に続き、営利主義がそのまま服を着ているような男が入ってきた。
 オーランが鋭い瞳で振り返っているノルンを一瞥した。ノルンは心の中でびくっとなりながらも表面上はにこやかな笑顔を浮かべて小さく頭を下げた。
 2人はノルンたちの正面に腰を下ろした。秘書官がオーランに耳打ちをした。オーランは尊大に脚を組み、小さく頷いた。
「君との話はもう終わったと思っていたのだがね。グスター・ベイロス君」
「ええ。わかっていますとも。オーラン専務」
 オーランの眼光をグスターの双眸が受け止め、逆に刃を突きつけた。本音を言葉に包み、と眼光を剣とし、刃を突き立てる。
 いきなり始った舌戦に部屋の温度が2℃ほど下がった気がした。
 交渉とは“ある議題について、参加者全員が納得できる状況あるいは結論を導き出すこと”が成功とされている。だが、雇う側と雇われる側の間で行われる交渉は違う。
 “自分の利益を最大化させること”や“どれだけ相手に損をさせ自分が得をするか”などが成功と言える。互いの立場と力関係を背景に論理と言葉を使って行う一種の戦いの場なのである。
「前の契約を蒸し返して文句をつける気はありません」
「ほう」
「オーラン専務はグスター操術士の実力はどのように評価しておられますか?」
 ノルンが心にわだかまる感情を押し隠して聞いた。
「偉大な操術士だと評価している」
 オーランは無表情に言った。
「だが、うちには要らない」
「それは高額な年俸がネックになっているのでしょうか?」
 ジャイグロ社の専務は薄く笑った。言わなくてもわかっているだろう、と顔が言っている。
『コストパフォーマンスの問題』
 以前の会議でオーランが言った言葉がノルンの脳裏に蘇ってくる。ノルンが嫌悪するあの女の考えと見事に一緒だ。吐き気がする。人間をモノのように考える。合理主義。営利主義。悪いことではない。以前は吐き気がするほど嫌悪していたが、営利主義がジャイグロ社を救ったことは事実だ。個人的には気に入らないが必要なときもある、というのがノルンが営利主義に下した評価だ。
 ノルンは感情が表に出ないように努めて話し出す。
「連盟の規則によれば“操術士の年俸の減額の最大は50%とする。ただし怪我による長期離脱など全体の50%以上デュールに出られない状況がある場合はこれに限らない”とあります。昨シーズン、グスター操術士は90%以上のデュールでデミアバターに乗っています。この条件には当てはまらない」
「何が言いたいのかね?」
 カミソリのように鋭利な双眸がノルンを射抜いた。心が萎縮しそうになるがノルンは目を逸らさず受け止めた。
「50%以上の減額。つまり――」
「年俸10万オーラム。契約金なし。この条件で再契約、、、を申し込みたい」
 ノルンの言葉を引き継いでグスターが言った。再契約こそがノルンが考えていたグスターがガルギナに戻る唯一の方法だった。解雇を受け入れ、その上で契約してもらうようにお願いする行為が再契約だ。これなら連盟の規則にひっかからない。新しい契約になるため、年俸の減額ではないからだ。
 再契約は操術士側が非常に立場が弱い。契約するようにお願いするのだから当たり前だ。当然、年俸は足元を見られ、かなり安くなる。しかし――10万は低すぎる! と、ノルンは思った。
「グスターさんっ!?」
 ノルンは驚きの声を上げ中年の操術士を見た。彼の瞳には強固な意志が宿っていた。ノルンは出掛かっていた言葉を飲み込んだ。自分では何を言ってもグスターの決心を揺るがすことはできないと感じたからだ。
 10万オーラムという額はデュール・イレクトに参戦する操術士の中では最低の額である。ルーキーとほぼ同額。評価の高いルーキーなら20万オーラムが相場だ。
「本当に良いのかね?」
 確認する問いに頷くグスター。グスターは頭を深く下げた。
「いいだろう。おい」
 ジャイグロ社専務は隣にいる秘書官に耳打ちした。秘書官は立ち上がりてきぱきと必要書類を揃えていく。グスターは指示されるままに書類を書き込んでいく。
「こちらに捺印を」
 グスターは神妙な顔つきで印を押した。
「契約成立だ。これからもよろしく頼むよ」
 オーランは勝ち誇った顔で手を差し出してきた。グスターは堅い表情のまま握手をした。
「さて……」
 腕時計の数字を確認した多忙な専務は、用はこれで終わりとばかりに立ち上がった。
「あ、あのっ!」
「まだ、何か?」
「もう1人、契約していただきたい操術士がおります」
 オーランが秘書官を振り返る。秘書官の男は事務的な声で「スカウトしてきたという女です」と告げた。オーランは椅子に座りなおした。
「連れてきたまえ」
 ノルンはぺこりと頭を下げ部屋から廊下に出た。目の前に黒髪の美女が佇んでいた。ネイルだ。ノルンはその姿を見てほっとした。
「専務が待ってますよ。早く入ってください。なるべく失礼のないようにお願いしますよ、ネイルさん。」
 ノルンは後半の言葉に力を入れた。オーランの前でいつもの傍若無人な振る舞いをすれば間違いなく追い出されるだろう。
「ちょっと待て。ノルン」
 ドアノブに手をかけたノルンの動きが止まる。
「お前、身を切る覚悟ってヤツがあるのか?」
「え?」
 唐突に何を言うのだろう。怪訝なノルンの視線を無視してネイルが続ける。
「グスターは腕を引き千切って私から勝利をもぎ取った。あいつには覚悟があった。 お前に覚悟はあるのか?」
 冬の湖沼こしょうのような蒼い瞳にノルンが映りこんでいる。思わず引き込まれてしまいそうな深い蒼。ノルンは試されていることを自覚した。
「あります」
 ノルンは言い切った。ネイルはぽんとノルンの頭に手を置き「いい子だ」と言って部屋に入っていった。
 ネイルが席についてから約二十秒。部屋の中の空気は圧倒的に重苦しくなった。張りつめた空気。息をするのが苦しい。ここはもしかしたら水の中なのかもしれない、ノルンはそう思った。
 ノルンの忠告を守らず傲慢不遜な態度で脚を組むネイル。視線はオーランの瞳に注がれている。
 体温がないのではないかと思うほど冷たい表情でネイルを睨むオーラン。
 表情がまったく動かないオーランの秘書官。
 この場を取り繕うとしたいが良い案が思いつかずおろおろしているノルン。
 直立不動で傍観者の立場にいるグスター。
「名前を聞こうか?」
 均衡を破ったのはオーランだった。
「ネイル・スカルグラップ」
「君のことがわかる書類は持ってきているかね? 例えば履歴書のようなものだ」
「ないね」
 ノルンは事前に用意してくださいと言ったはずだ。
 ――ああ、もうダメ。
 交渉というレベルではない。ノルンは次にオーランが言うであろう言葉がなんとなくわかった。
「帰りたまえ。ここは君のような人間が来る場所ではない」
 冷たい刃のような声でオーランが言った。ほとんどノルンが予想していた言葉と同じだ。
「実力のある操術士が安く欲しい。が、得体の知れない者は要らない。中身のわからない宝箱は開けてみればガラクタばかり……あんたはそれを経験上よく知っている」
 立ち上がろうとしたオーランの動きが止まった。
「私はあんたらが求めるような実績は持っていない。非公式デュールであるロードサイドで85勝1敗の戦績を残したとしても、ここにいるグスター・ベイロスに勝ったことも、あんた方みたいな書類上でしか判断できない人間にとっては無価値な情報だ」
「考慮には入れるよ。その情報が確かならね」
 オーランは椅子の後に立っているグスターを見やった。
「彼女の言っていることは本当です。彼女の実力なら十分デュール・イレクトで戦っていけます」
「わたしもそう思います」
 ノルンもグスターに続いてネイルを評価していることを伝えた。
「なら、その実力の一端をここで見せてもらえるかな?」
 オーランは秘書官に魔刻石を持ってこさせた。ネイルの目の前に魔力計測用の石版が置かれた。
 ネイルの魔力値は1000ch前後である。とてもオーランを納得させる数値ではない。だが、ノルンとグスターはこの値がネイルの本気ではないと半ば確信めいた思いを抱いている。
 あの2戦の中で幾度か見せたデミアバターの人工筋肉の限界を超えた動きは魔力値1000chの人間が出せるものではない。ネイルはもっと高い魔力を持っているに違いない。そしてこの状況ならネイルは本気を出すだろう。いまさら隠しても仕方のないことだからだ。
 ネイルの掌が魔力の輝きを帯びる。勢いよく魔刻石に振り下ろされた掌。ノルンは期待に満ちた目で結果が表示される光学表示板を見つめる。
「結果が出ます」
 事務的な秘書官の声に続いて数字が表示された。
 1010ch。
「え?」とノルン。同じように目を丸くして驚いているのがグスターだ。オーランはちらりと眺めただけ。秘書官は小さく噴出していた。
「ちょ、ちょっと待ってください。ネイルさん、もう隠さなくてもいいんですよ」
「隠す……何を?」
 ネイルは小さく首を傾げた。
「何をって、魔力値ですよ。本当はもっと高いんですよね」
「いや。これが私の精一杯だよ」
 ネイルは涼しい顔で絶望的なことを言った。ノルンは混乱と焦燥に襲われた。
 ――え。ど、どうして? じゃああの動きは何? 何だったの?
 ――ああ、これで駄目だ。契約が……
「この程度の魔力値で実力があると言い張るのかね? 君は」
 鋭い追及だ。こうやって客観的な数値データを示されると何も言い返せない。
 ノルンはなんとか誤魔化そうと言葉を探すが見つからない。
 その隣で自信たっぷりにネイルが言い放った。
「ああ。もちろん。魔力値はデュールを左右する要因だがその要因1つだけでは勝負は決まらない」
「別の要因が優れていると?」
「そう。だが、ここではそれを見せることはできない。だからチャンスを貰いたい。デュール・イレクトが本格的に始動するまであと2ヶ月。その間、私をガルギナのテストスタッフとして加えてもらいたい。私の実力を見せてあげるよ。もちろんその期間の間の報酬は要らない。改めての契約はデュール・イレクト開幕直前ということでどうだい? やり手の専務さん」
「なるほど。試用期間というわけか。その間にネイル・スカルグラップという操術士を評価し必要ならば開幕直前に契約。不要ならばその場で切る。そういう話になるわけだ」
 確認をするようなオーランの話にネイルはゆっくりと頷いた。
「だが、その案は却下だ。我がガルギナには君のような得体の知れない人間を2ヶ月も置いておくわけにはいかない」
「まあまあ。話は最後まで聞きなよ。得体の知れない人間を2ヶ月も置いていくのは確かにデメリットだ。私が契約時に不要と判断された場合、他に有用な人材が確保できた可能性が消え、無為なお金だけが浪費されたことになる。その責任の一端は私を連れてきたノルン・ハーミットにもある」
 いきなり名前が出てきたノルンはびくっとなった。
「ここにいるガルギナの監督さんはもし私――ネイル・スカルグラップが不要と判断された場合その責任を取って年俸の全てを返還し監督業を辞します、と言っていた。私を不要と判断すれば、この意外に思い通りに動かない生意気なお飾りを排除することができる。悪くない条件だろう」
「え、えぇー!?」
 驚きの声を上げるノルンをネイルが黙殺する。ノルンのふわふわの髪の毛をネイルの指が掻き分けた。ネイルはノルンの耳に唇を寄せると小さく囁いた。
「身を切る覚悟があるんだろう?」
「ノルン君。この者が言っていることは本当かね?」
 オーランがノルンに問うた。正面は剃刀のような灰色の双眸。
「私が不要と判断されるはずがないだろう」
 自信たっぷりにネイルは言った。横から蒼い瞳がノルンを睨みつけている。まるで魔眼だ。逆らえない。ネイルが持つ絶対の自信にノルンは惹きこまれていく。
「………はい。正しいです」
 小さな、しかしよく通る声でノルンは言った。その後オーランの秘書官が様々な書類をテーブルの上に並べた。もう後戻りはできない状況になっていた。ノルンは指示される通りに記入していった。
 ジャイグロ本社のエントランスから外に出たネイルはすぐに煙草を取り出しぷかーと一服した。
「どうしてくれるんですかネイルさん。わたしのお給料返還とクビを条件にするなんて聞いていませんよ」
 ノルンが口を尖らせて不満を言った。
「言ってないからな」
 しれっと悪びれた様子もないネイルにさらに文句を言ってやろうと口を開く――
 ノルンが何かを言う前にネイルが振り向き、その美貌をノルンの顔に寄せてくる。
「お前は理由や経緯はどうあれ私というカードに金を賭けたんだ。もう賭けの期間ベッティング・インターバルは終わった。あとは勝負ショーダウンの時間だ。勝負の行方はカードが決める。お前はカードに賭けた自分の判断、、、、、を信じろ」
 後戻りはできないから腹をくくれと言っているのだろうとノルンは解釈した。自分の判断を信じろ、という最後の言葉が妙に心に残った。





 鉱物の採掘からスタートしたジャイグロ社の歴史は古い。採掘用人型機械ワーカーの開発技術がそのままガルギナのデミアバターに応用されている。ガルギナはデュール・イレクトに参加する12チームの中で最も古いチームの1つである。
 社員数が10000を超える超巨大企業ジャイグロ社が所有している広大な敷地には、中低層のビルが点在し運動場やデミアバターを建造する工廠こうしょうが存在している。ジャイグロ社の本拠地は一つの街といっても過言ではない。
 ガルギナの施設もこの敷地内に存在している。ガルギナのスタッフ寮は敷地の西南部に建っていた。色気もセンスもないシンプルで無骨な建物だ。ガルギナのデミアバターのデザインが地味で無骨なのはジャイグロ社から受け継がれた伝統なのかもしれない。
 スタッフ寮の名前はモーテル・ガイアフロント。このセンスはどうかと思うネイルであった。建物に入って廊下を歩いていく。キャスター付きのバックがゴロゴロと音を立てた。
 途中、運送業の服を着た男数人とすれ違った。事前に教えられた部屋の前にたどり着くと梱包用箱が壁のように積み上がり部屋のドアを塞いでいた。寮の部屋には2人で住むことになっている。旅行用バック一つのネイルと違い同居人の荷物は随分と多いらしい。
 旅行用バッグの上に座ったネイルはさっそく煙草の箱を取り出し1本咥えた。
 廊下の向こうからぱたぱたと少女が小走りで近づいてくるのが見えた。書類を納めるファイルフォルダと数冊の本を小脇に抱えている。少女だとしてもかなり背が低い。顔立ちも幼い。高い位置でくくられているツインテールが少女の動きに合わせてぴょこぴょこ跳ねている。
 王立アカデミー学院の準魔導士の制服を来ていなければジュニアスクールの生徒だと勘違いする容姿である。その少女はネイルの少し手前で盛大に転んだ。
 ごんっ、と尋常ではない音が寮の廊下に響き渡った。ネイルが見ていた限り転ぶような要素はどこにもなかった。さらに少女は転ぶときに人間であれば必ず起こすリアクションが一切なかった。咄嗟に足を出す。膝から転ぶ。手を突く。あるいは身体をひねる。そういった転倒の衝撃を和らげる動作は皆無だった。さらに廊下をわずかながら滑っている。
 うつぶせに倒れたまま少女はぴくりとも動かない。平らなところであれほど見事に転ぶことができるのは一つの才能だな、とネイルは思った。ふと、少女と床の間に挟まれている本の一部が目に入った。ネイルの知的好奇心を刺激する本だ。
 ネイルは少女の元に歩み寄るとその身体をどかそうと手をかけた。本を取るためである。
 すると少女の頭がバネ仕掛けの人形のように勢いよく跳ね上がった。間近で見ると少女の瞳が非常に珍しい色をしていることがわかった。右眼が金色、左眼が碧色である。
「どうも、こんにちは」
 鼻とおでこが真っ赤に腫れているが少女はにっこりと笑顔を作った。痛覚が麻痺しているのだろうか。少女はネイルの姿を見て、
「ルルを助けようとしてくれたんですね! ここ最近はラルくん以外の人に助けていただくことはなくて……あたし、感激してます」
 本当は下敷きになっていた本を取るためにどかすためだったとは言えないネイルは、
「大丈夫か?」
 と心配そうな表情を顔に張りつけて聞いた。
「はい。大丈夫です。いつものことです」
 立ち上がった少女は歯切れよく元気に答えた。脳が色々可哀想な状況になっているが元気に健気に生きている少女のようだ。問題はそんな少女がガルギナのスタッフ寮にいるということだ。
「もしかしてここの部屋に入る人ですか?」
 少女は梱包用箱が積み上げられている部屋を指差した。信じたくはないがこの少女がネイルの同居人のようだ。ネイルは心の中で盛大なため息をついて「ああ」と頷いた。
「やっぱり!」
 目をきらきらと輝かせて少女はぽむと掌を合わせた。
「こんな綺麗な人と一緒に生活できるなんてルル感激です。あ、申し遅れました。あたしはルル・バーパラといいます。今年からガルギナ情報技術部に配属される調律士見習いです!」
 調律士とはデミアバターと操術士の仲介役とも言える役職だ。操術士が思うとおりにデミアバターを動かすことができる背景には魔力操作機構MMS運動制御機構アクチュエーターなどのシステムの働きがある。それらのシステムを構築やメンテナンス、操術士にあわせたセッティングなどを行うのが調律士である。
 元気がよくテンションが高いルルとは好対照にテンションが低いネイルは「ふぅん。調律士ね」と言ったきりだった。
「えっと……」
 ルルがネイルの顔を上目遣いに覗き込むようにしている。何を言いたいが言い出せない。ネイルからの言葉を待っている様子だ。
「ネイル・スカルグラップ。ネイルでいいよ。ルル」
 名前を教えてくれたことと名前を呼んでくれたことがよほど嬉しいのだろう。ルルは少し目を潤ませて感激していた。
「よろしくお願いします。ネイルさん」
「ところでルル。お前の荷物が邪魔で部屋に入れない」
「はぅ! すみませんすみません。すぐ片付けます」
 ぺこぺこと頭を下げたルルは積みあがっている箱に手をかけた。顔を真っ赤にして力んでいる姿はとても一生懸命に見える。見えるのだが、箱はほんの数cmしか動いていない。
「はふぅ」
 額の汗をぬぐうような仕草をしているルルは仕事を終えた達成感に溢れている。ちなみに箱はまだ数cmしか動いていない。このペースでは一週間かかってもネイルは部屋に入れないだろう。
 自分のために手伝おうと立ち上がったネイルはルルとよく似た風貌の少年が近づいてくるのに気がついた。きりりとした目元とシャープな顎のラインが男性を主張している。背の丈はネイルより少し高いくらいだ。
 ルルとは逆に右眼が碧色、左眼が金色の輝きを発している。中性的な美貌を持った美青年といえるだろう。
「姉さん。お待たせ」
「いいタイミングだよ。ラルくん、今、ちょうど助けてもらいたかったところ」
 ――姉弟か。弟の方が大人びている。兄妹なら、ぴったりという気がするが……世の中上手くいかないものだな。
 妙な感慨を抱くネイル。
「姉さん、こちらの方は?」
「ルルと同じ部屋に住むネイルさん」
 ルルがまるで自慢の姉を紹介する妹のように言った。
「姉がお世話になります」
 ラルと呼ばれた少年は礼儀正しく頭を下げた。ルルの話によると2人は双子らしい。王立アカデミーでは有名な操術士と調律士のツインズだったらしい。
 3人――主にラル――の努力により日が沈むまでには荷物は全てルルの部屋に収まった。大量の梱包用箱の中身は魔導素子演算機コンピューター関連の荷物だった。ほとんど何もしていないのにも関わらずルル疲れたようだ。梱包用箱から出して組み立てるのは明日にすることに決めたらしい。
 ラルとルルの双子はリビングに元々置かれていたソファーに座りのんびりとお茶を楽しんでいる。ネイルは労働の後の一服のため煙草の箱に手を伸ばした。
「ネイルさん。ルルは煙草の臭いが苦手です」
 ルルが申し訳なさそうに言った。遠まわしに止めてくださいと伝えている。
「私は好きだ。これがないと生きていけない」
 ネイルは至極真面目な顔で言う。
「ルルは煙を吸うと死ぬわけじゃないのだろう? 私はこれがないと死んでいるも同然だ」
 ネイルは種火エンパの魔術で煙草の先に日を点けた。
「むぅ……」
 渋い顔になったルル。が、すぐに何かを思いついたらしく明るい顔に戻った。
「わかりました。ルルが煙草を我慢する代わりに条件があります。毎朝の髪のお手入れです」
 煙草を我慢する条件として髪の手入れが出てくるところがよくわからないが、ルルの思考回路はパラレルワールドの経由していることをこの数時間で理解したネイルはすんなり納得した。
「私にしろと?」
「いえ、ルルがやるんです。むしろやらせてください、、、、、、、、、、、
 ルルが色違いの眼を爛々と輝かせて迫ってくる。ネイルは頭の中で色々考えた後、大した害はないだろうと判断した。元々彼女は自分を着飾ることに関しては無頓着である。長い髪の毛は武器になるから伸ばすままにしているのだ。
「好きにしな」
「わーい」と玩具を与えられた子供のような声を出したルルは素早く動いた。ネイルの髪をふと房すくいあげて、何度も手触りを確認している。
「すごいです。ハリ、ツヤ、コシ、全部完璧。カテちゃん以上の逸材ですよ、これは! さらさらすべすべ、手の中でこぼれ落ちる〜♪ るる〜」
 興奮のあまりルルは途中から歌を歌いだした。手で撫でることでは飽き足りないのかネイルの髪に頬擦りを始めている。
「コレはいつもこんな感じなのか?」
 双子の片割れは暴走気味の姉を横目しつつ、申し訳なさそうに頷いた。
「姉さんは綺麗な人、特に長い髪の人に眼がないんです。アカデミー時代はカテリーナさんという方が姉さんのおもちゃ――いえ、犠牲者――じゃなかった。その……可愛らしい髪型になっていました」
 ラルは曖昧な笑顔で誤魔化した。
 口約束とはいえルルと交わした約束は契約だ。ルルがネイルの煙草を許可することを交換条件とした契約。ネイル自身が破ることを許さない。厄介な契約をしてしまったようだ。
 なかなか愉快なことになりそうだとネイルは覚悟を決めた。


 続く




2007/2/21 初版

 

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