1.
私は寿司が大好きだ。
私が今いる、この店は寿司屋を食べ歩いた私のベストだ。
色とりどりの皿の上に、新鮮極まりないネタが更なる彩を添えている。
太い“L”字型のレーン上を皿が移動していく。海鮮食材がシャリの上で踊る。見た目にも鮮やかな寿司の饗宴。
家族連れやカップルたちが和気藹々と寿司の味に舌鼓を打っている。
ここは回転寿司の店。この雰囲気が私は嫌いではない。
だが、そんじょそこらの百円寿司と一緒にしてもらっては困る。
天下の市場――築地から直で流通してくるネタは生きがよく、そしてバラエティに富んでいる。
見よ! この赤身の肌理の細かさを。
見よ! 大トロの脂のさし具合を。
江戸前寿司の老舗にも勝るとも劣らないネタ。そして、職人たちの腕。
どこの店でもツケ場(カウンター席の向こうで握っている職人のこと。寿司職人の花形)を張れる逸材たちだ。目の前の職人が魔法のような手つきで寿司を握っていく。
寿司を作る手順を一手、二手と数える。一人前の職人は五手で握り寿司を完成させるという。だが、ここの職人は違う。
左手は適量の酢飯シャリを一掴み。ミリグラム単位で狂いはない。右手はネタを乗せている。
職人の腹の辺りで両手が交錯する一手目。
手の平の中だけで寿司の上下を入れかれる業――小手返し。
さらに上下の形を整える二手目。
最後に全体の形を整える三手目。
次の瞬間――寿司は皿の上に乗せられている。たった三手で握り寿司が完成していた。
迅い。そして美しい。完成された技術は芸術の域に到達していると言っても過言ではない。
形は最良とされるふんわり扇形。口に入れた瞬間、ぱらりとシャリがほどける卓絶としか言いようのない技術。惚れ惚れする。
何故、これほどの店が回転寿司なのか。それは店の方針が“安く、美味しい寿司を食べて欲しい”だからである。通常の寿司屋はやはり敷居が高い。一般庶民でも気軽に入れるお店。親方はそれを目指したのだ。
素晴らしい。私はこの店の常連だ。
私は間違いなく回転寿司通である。
故に――私は知っている。
あと二十分で行われるタイムサービス――特選大トロが調理場から流れてくることを。
限定十皿の特選大トロ。コレを目当てで来る客も多いという。近海生のシビが入荷したときだけ出される幻の一品。
ふ、ふふふふ。私の場所は調理場から一番近い席。
完璧だ。私は二時間前からここに座っている。
特選大トロを食べるためだ。
特選大トロ、それはカマシタと呼ばれるマグロの部分だ。カマ(エラのこと)すぐ下にある筋肉は最も使用される。すなわち、最も上質な脂がのっているということだ。
松坂牛の霜降り肉のように鮮やかに咲き乱れる脂の美しさ。口に入れた瞬間トロける味わい。その瞬間は、私は桃源郷に連れて行かれるのだ。
お茶を啜りながら、来るたるべきときを待つ。
2.
私は、新しく座った客の言葉に落雷の如し驚愕を覚えた。
その声は賑やかな店内の中でもよく通った。
「すみませーん。山葵巻きお願いできますか?」
わ、山葵巻きだとぉぉぉッ?
山葵巻き。
その名の通り、寿司に欠かすことの出来ないツンとした辛さと清涼な香りを持つ薬味――山葵を巻いた巻物だ。これを好き好んで食べる人間は限りなく少ない。
この注文は、寿司屋への挑戦状なのだ。
山葵。
酢飯。
海苔。
これは寿司屋に欠かせない基本中の基本。だが、基本ゆえに疎かにできない要素。その三つを同時に味わう山葵巻きは店の格を決めるといっても過言ではない。
よく玉子を食べれば寿司屋の良し悪しが分かると言う。確かに否定はできない。
だが、私はあえて言おうッ!! 山葵巻きこそ、寿司屋の良し悪しを判定する食べ物だと。
玉子はだいたい一回しか口にしないだろう。だが、山葵と酢飯がない寿司はない。そして海苔の重要性は、軍艦巻き、海苔巻きを食べれば分かる。
注文を受けた職人の顔が変わった。
アレは真の料理人の顔だ。この客を唸らせてやる、という信念をもった顔だ。そう、私のときと同じだ。
注文をした、太った身体をトレーナーの中に押し込めた普通の男。だが、丸眼鏡の奥に宿る眼光は鋭い。
間違いない――ヤツは通だ!
寿司屋の空気が一瞬にして変貌する。
女子供は引っ込んでろと言わんばかりの殺伐とした空気。
これは戦いである。奴と寿司屋。私と奴。
なんの勝負かは口で説明することはできない。漢の勝負とでも言えばいいのだろうか。女たちには理解できまい。
正直、私も自分のことを理解しかねている。だが、私の心の奥底、漢領域が“これは勝負だと”告げている。これはそういう戦いなのだ。
いいだろう、お前は私に挑戦した。その挑戦を受けようではないか。どこまで私についてこれるか見定めてやるゥ!
山葵巻きを口にした男の顔が変わった。ニヤリ、と口の端を吊り上げ笑う。
その貌は「ほう、なるほど」と頷いているかのようだ。
次に男が手を伸ばした皿はヒラメ。
寿司に限らず料理において薄い味付けから濃い味付けに行くのは定石である。
白身魚はフランス料理で言えばオードブルにあたる。
本来なら「フン。ただの寿司通か」と、せせら笑うところである。
私は寿司通すらも内包した回転寿司通なのだ、相手にならない。そう思うはずだった。
だが、奴の取った皿は二周回った皿だったのだ! 奴の目利きに驚愕を禁じえない。
通常の寿司は握りたてが最も美味く、時間が経てば経つほど味が落ちる。それが常識だ。
だが究極の回転寿司屋であるこの店は違う。二周回った皿が一番、美味いのだ。
その秘密は職人の握り方にある。酢飯を握る際、シャリに窪みを入れる。すると、その部分が空洞になる。この空洞が大事なのだ。この寿司は握りたてのときに食べると、若干緩めである。シャリの中に生じた空洞はシャリとネタの自重によって締まる。このときが最も美味い。これは皿を回転させ時間を置くことを前提にした技術だ。
もちろん直接注文の際は、握りたてが最も美味しいように作る。こういった心配りができる店なのだ。
馬鹿な。奴はそれを知っていたというのかッ!!
この私でさえ、三回目にようやく気がついた事実だというのに。
皿の上にのった二つのヒラメのうち、一つを食べ終わったとき、奴の口が開いた。
「穴子、お願いします」
あ、穴子ぉぉッ!?
セ、定石の無視。煮ツメの甘辛い濃厚な味を誇る穴子は続く寿司の味を殺してしまう。
好き勝手に注文しているのか? 否。奴がそんな男であるはずがない。
私は注意深く男を観察した。
穴子を美味しそうに食べ終え、その手がガリ(生姜を酢漬けした、舌休めのための添え物)に伸びる。
そ、そうかッ! そうだったのか。
奴はガリを試したのだ。穴子の濃厚な味をスッキリ洗い流せるのか。それを確めるとは、やはり奴はできる。
男は次々と寿司を胃袋に収めていく。
赤身のヅケ、赤貝、イワシ、ウニ、エビ、バカ貝
ネタの選択は王道そのもの、前後、そして全体のバランスも考え抜かれた絶妙な順番。
一流店のツケ場に立つことが許された職人が“お任せ”で握るときに出される寿司の流れ。それと同レベルの黄金律。
驚嘆すべきところはそれだけに止まらない。
奴の食べ方には無駄が排除されていた。洗練されていると言い換えてもいい。
流れていく皿に走る視線は、どのネタが最適かを見極めている。さらに皿が回る速度と自分が食べる速度を計算し、前の皿を食べ終わったとき、目の前に次の皿が来ている。
これは回転寿司を極めた者にしかできない芸当だ。否、極めるだけではこの神業は可能ではない。職人の癖、店の癖をも視野に入れ、お目当ての皿が他者に取られないという運さえ必要とする。私でさえ三回に一回できるかどうかという業だ。
まさかこれほどの使い手だとは。
私は男の一挙一動を見逃さないよう凝視していた。
男の手が黄金の皿に伸びる。特選大トロを頬張った男の顔が緩む。口の中に爆発したマグロの旨みが自然と顔を綻ばせるのだ。男の至福の顔を見ているとこちらまで幸せになってくるようだ。
完璧だ。今までのネタは特選大トロに繋げるための布石。私は彼のコースの組み立てに拍手を送りたい。
――ん? 待てよ。
特選大トロ?
私は一番調理場に近い席に座っている。奴は私の斜向かいにいる。
待て待て。落ち着け、冷静になるのだ。
よぉ〜く考えろ。
奴は特選大トロを食した。奴の位置は私より下座にある。
「しまったああああああああああ!!」
思わず声に出してしまった。何事かと、周囲の人たちが私に注目する。
ああ、ようやく現状が飲み込めてきた。
私は、特選大トロを逃したのだ。
奴の動きばかり気にし、目の前を桃源郷が通り過ぎるのを黙って見過ごしていたのだ。
なんという愚かさだ。自分自身に腹が立ってくる。
――負けた。私の完敗だよ。
私は立ち上がり、力ない声で「お愛想」と告げた。
帰り際、振り返ると例の男は満足げにお茶を啜っていた。
「次は勝つからな」
私は小さく呟き、店を出た。
どんな勝負かは私にもわからない。だけど、確かにこの場には真剣勝負が存在し、私は負けたのだ。
回転寿司道は奥が深い。
<了>