黎明の光が建物の輪郭や山岳の稜線を浮き立たせる。
暁の刻、九月のひんやりとした空気が三人の頬を撫でた。
彼らは高校生。今は修学旅行の三日目の早朝。そして、ここは彼らが宿泊している旅館の中庭である。
薄明かりの中、紅葉の木や苔の生えた岩がぼんやりと見える。高校生である彼らには理解できないだろうが、立派な風情の庭園だ。
「諸君、覚悟はできているか? 俺は、できている」
眼鏡のブリッジを押し上げ、口元に不敵な笑みを作り康熙は言った。彼の発言は唐突かつ意味不明である。
一人色めきたつ友人を、二対の冷めた視線が眺めている。
「おい。こんな時間に起こしておいて、なんだよいきなり」
寝ぼけ眼を擦りながら坊主頭が言った。三人の中で一番小さいが横幅は最も広い。太っているのではない彼の身体は若々しい筋肉に覆われている。柔道部に所属している猛者である。名前は明典。
「まあまあ。俺の話を聞きたまえ」
と、いがぐり頭の明典を宥めながら康熙は話し始めた。
「先日、愚かな輩が女子風呂を覗こうとしたそうじゃないか」
「ああ、二組の奴らね」
二人から少し離れたところに位置をとっていた礼二の発言である。彼はよくツルんでいるグループの中でも、一歩引いた位置にいる少年である。だいたい暴走する康熙の突っ込み役となっている。
「そう、奴らは失敗した挙句、この先の二日間先生たちの監視付きという枷をはめられてしまった。俺は、あえて言う。奴らは負け犬の衆愚であると。だが、奴らの気持ちは分かる。俺には、分かりすぎるほど分かる。だが、悲しいかな、奴らはお頭が足りなかった」
康熙はやけに熱の篭った声である。自分の言葉に酔っている者特有のオーラが出ている。
この男はクラス随一のトラブルメーカーで、無駄なことに全力を注ぐをモットーとしている。いわゆる馬鹿である。
「俺はお前が覗きに行かなかったことが不思議でならないよ」
礼二の言葉に、明典が「そうだな」と頷いている。
「だから、これから覗きに行くのだろうが。名づけて“早朝の隠密作戦、湯けむりの向こう”だ」
「は?」
康熙のさも当然という口調に二人の目が丸くなった。
「まあ、聞け。同志たちよ」
「勝手に同志にするな」という、礼二のツッコミを黙殺し、康熙は続ける。
「我がクラスのアイドルミキミキこと河合美希は可愛い」
「うん。それは確かだ」と、明典が頷く。
「ちっちゃくて、明るくて、可愛い。さらに頭もいい。だが、諸君。彼女が何故、一つ上のサイズの制服を着ているか知っているかね?」
明典は「さぁ」と首を傾げ、礼二は「どうでもいいよ」と肩を竦めた。
康熙は「フッ」と笑ってから、猛々しく言った。
「胸のサイズが合わないからだぁぁぁぁぁぁッ!!」
澄んだ空気に康熙の叫びが響く。この朝っぱらからこの大声。これから隠密作戦に望む人間がこれでいいのだろうか。
ビカァ! と雷に打たれたような顔をする明典。己が至らなかった真実を教授され、感動に声を上げる。
「そ、そうだったのかぁぁッ!!」
「そう。間違いない。データが間違っていなければ彼女のブラのサイズはE60――つまりEカップだ!!
ミキミキは自身の身長にあわせた服では胸元がはち切れんばかりになってしまうのだ」
康熙はずばっと断言する。彼の背後に波濤がざぱーんと弾けた背景が見えたのは気のせいだろうか。
「Eィィカップっ! はち切れんばかりっ!」
明典は完全に康熙の術中にはまっていた。ぐびり、と明典の喉が鳴る。彼の頭の中では桃色の妄想が走馬灯のように繰り広げられているに違いない。
「あのロリロリフェイスに、バインっ! バインっ!。鬼に金棒。マイクタイソンにメタルナックル。ミキミキにEカップ! まさにパーフェクト」
康熙は興奮気味だ。彼特有の意味不明な言葉の羅列が光っている。そんな彼に冷静に突っ込みを入れる者が約一名。
礼二である。
「お前、どうやって河合のブラのサイズを調べたんだ?」
礼二の双眸には性犯罪者を見るような嫌悪とある種の哀れみの光が宿っている。
「祐樹情報だ」
祐樹というのは彼らの共通の友人で本来なら四人で一つのグループである。彼は美希とお隣同士で幼馴染で、さらに仲良しである。付き合っているという噂が流れているが本人は笑って否定している。同性からの羨望と嫉妬と逆恨みを一挙に集める少年である。
「なるほどな」
礼二は三人の共通の友人である彼がこの場にいない理由を思い当たった。
(河合の風呂を覗こうとすれば、アイツが止めないはずないからな)
「よく祐樹から河合の情報を引き出せたな」
「ふっふっふ。俺の巧みな話術を舐めてはいけないよ」
人差し指を立てて振り、「ちっちっち」と、さも得意げである。
「さらに祐樹情報によると、彼女はかなり早起きで、朝シャンが大好きらしい。つまり、これから温泉に入る可能性が高いというわけだぁぁ!」
「おおっ!!」
先ほどから、明典のボルテージは上がりっぱなしだ。ようやく見えてきた話の内容に、下心を思い切り刺激されているようだ。
「さらにぃぃ! 早朝は先生たちのマークもない。昨晩奴らが宴会を開いたいたことを俺は知っている! 奴らは今の時間、酔いつぶれぐっすり眠っているだろう。俺たちを止める者は皆無。覗き放題のパラダイスタイムなのだ!!」
どごーん、と康熙の背景で火山が噴火した――ような気がした。
「さすが、康熙! すげぇよ。普通の人じゃ考えつかない完璧な計画だよ」
明典は完璧に康熙に陶酔していた。
佐藤康熙、扇動者の素質あり。山元明典、怪しいオカルト教団に入会する恐れあり。
「ぐふふ、あまり褒めないでくれたまえ」
「アホらしいな。俺は抜けさせてもらうよ」
礼二は康熙たちに冷や水をかけるような冷たい声で言って、踵を返した。
「なにぃ!? 貴様はミキミキのスーパーバデェを見たくないのか?」
「ああ、興味ないね。ま、安心しろ。先生たちにはチクったりしねぇよ」
礼二は振り返らずひらひらと手を振って、二人から離れていった。
「ふん。礼二のヤツ、気取りやがって。まあいい。少数精鋭の方が気づかれないからな」
康熙は「さて」と前置きを言ってから、
「改めてこの言葉を言わせてもらう。覚悟はできているか?」
二人の馬鹿の声が重なる。
「「俺は、できてる!」」
グッと親指を立てた手を、ぶつけ合わせる。
それは友情の証。
それは同志の絆。
それは魂の共鳴。
「“早朝の隠密作戦、湯けむりの向こう”――作戦開始」
二人は互いに頷きあい、小走りに動き出した。
二人は目的の場所へ移動した。
彼らに言葉はない。ただ視線を重ね合わすだけで意思の疎通を図っている。
今、彼らは隠密と化していた。
忍の者は、任務遂行のためにあらゆる感情をそぎ落としたという。
康熙と明典の二人は邪な感情を除いて全てそぎ落としていた。煩悩に突き動かされているとも言う。
二人の忍びは、露天風呂浴場の前に立ちはだかる壁の前で立ち止まった。
彼らの目の前にあるのは文字通り壁だ。高さは二メートル台の後半はあるだろう。取っかかりが皆無に等しく、登るのには適しているとは言いがたい。
二人の視線が交錯。明典が頷いた。彼は上半身を屈め、馬跳びをするときの台となった。その位置は、跳び箱でいうところの踏み台。
康熙が壁から距離をとった。
暴走機関車のような勢いで走り出した。五十メートル走十秒台の男の走りではない。
康熙は明典の背中を踏み台に跳躍! 壁の頂端へ手を伸ばす。五指がガッチリとかっ掛かりを掴み、腕力で己の身体を持ち上げる。
懸垂が一回もできないはずの男なのだが徐々に身体は持ち上がり、康熙は足をかけることに成功した。足の力と腕の力によって、ついに康熙は壁の上に立った。
恐るべしEカップの力。
康熙は下に向かって手を伸ばす。がしっ、と垂直に跳び上がった明典の手がそれを握った。決して離れないよう。康熙が引き上げようと力をこめ、明典が柔道部で鍛えた筋力が発揮される。
二人は固い絆で結ばれていた――はずである。
ざっざっざっ。という足音が近づいてくる。人影が康熙の視界の端に映った。
再び交わされるアイコンタクト。
隠れる。それが二人が出した結論だった。康熙は壁の向こうへ、明典は来た道を戻って角の陰に隠れた。
人影の正体は早起きの従業員だった。あくびをしながら明典の前を通り過ぎて言った。
明典はほっと胸を撫で下ろした。
壁の位置まで戻ってくる。
気配がない。
「おい、康熙」
呼んでも返事がない。
沈黙。
朝の空気は冷たい。明典は冷たい空気を肺腑一杯に吸い込む。ゆっくりと吐き出す。
彼は自分に「落ち着け、何かの間違いだ。戦友が俺を見捨てるはずはない」と心の中で言い聞かせた。
深呼吸を三回繰り返し、もう一度呼びかける。
「康熙」
返事は、ない。
「野郎ォッ!」
明典は気がついた。置いてかれた、と。
部屋のドアを開けた途端、礼二は祐樹に遭遇した。
祐樹は慌てた様子だったが、礼二の顔を見ると少し安心したように顔を緩めた。
「よお」
「どこ行ってたんだよ、礼二」
「ん、ちょっとな」
「朝起きたら、誰もいなくてビビッたよ。何、これ。ドッキリのつもり?」
礼二は少し考えてから、
「ある意味な」
「どういうことだよ」
礼二の心の中には天秤があった。左の皿には康熙と明典との友情。右の皿には祐樹との友情。
彼の天秤は音速で右の皿に傾いた。礼二と祐樹は親友同士である。
礼二は康熙の頭の悪い作戦を祐樹に説明した。
すると、祐樹は、
「ああ、やっぱりね」
と、納得していた。
「なんだ、驚かないんだな」
「康熙が美希のことを聞いてきたときからなんとなく予想はしていたよ」
茂みの向こうは、温泉独特の匂いが香る桃源郷である。
佐藤康熙は思った。
(俺は多くの困難を乗り越え、今、ここにいる)
自分の世界に没入した彼の世迷言を止める者は誰もいない。
(長い道のりであった。作戦の壮大さに恐れをなした同志がいた。侵入者を拒む壁があった。だが、同志の命がけの行動によりそれを乗り越えた。かけがえのない同志であった。彼の犠牲なしには俺はここに立つことはなかった)
目頭を押さえ、群青色の空を見上げる。彼の中では、その方向に犠牲になった同志がいるのだろう。
そのとき脱衣所に人の気配を感じた。
(彼の犠牲は忘れない。いざ!)
茂みの向こう側に目を凝らす。桃色空間はすぐ目の前にある。だが、予期せぬ事態が彼を襲った。
彼の視界は白濁したカーテンに覆われた。
(しまった!! 眼鏡が曇ってしまった)
佐藤康熙一生の不覚。彼は眼鏡を外し、目を細める。彼は裸眼視力は0.1程度しかない。
ぼんやりと、人影が靄の向こうに見える。
ちゃぷん、と人が湯船に入った音が康熙の興奮を掻き立てる。
同学年の男子生徒九十九パーセントが夢見る河合美希の裸身が目の前にある。ここに神様が現れ、「願い事を一つだけ叶えてやろう」と言ったら、康熙は間違いなく「視力を良くしてくれェェ!!」と願うだろう。
(うおおおぉぉおおッ! ワンダフル・コウキ・アイィィズゥッ!!)
奇跡が起きた。
見えたのだ。
いや、対象が近づいてきたといった方が正しい。
たとえ覗いていることが、バレてしまっても彼に後悔はないだろう。見えた相手が河合美希ならば。
ふと、目が合った。
「うわあああああああああああああああああああ!!」
「きゃあああああああああああああああああああ!!」
二つの悲鳴が払暁の空に響いた。
康熙の絶叫。それは絶望で構成されていた。精神が砕け、魂が上げた断末魔。
祐樹から聞いた事実に、礼二の顔が驚きの色に染まる。
「はぁ? 岡田真理絵――って、横綱ドス子じゃねぇか」
岡田真理絵。彼女の容姿はそのあだ名から推察することは容易だ。
「そう。岡田さんは美希と仲がいいからね。その関係でちょろっと聞いた話を康熙にしてやったってわけ。本当は、美希のやつ、朝はすごく弱い」
礼二はうそ寒げな顔で黙り込んだ。 どうやら礼二はドス子の湯煙姿を想像してしまったらしい。
「……康熙と明典、ご愁傷様だな」
「そんなことないと思うよ。岡田さんが温泉に入るとは限らないし」
礼二は親友に訝しげな視線を投げた。
「お前、実は酷いやつだろ」
「そんなことないと思うけど」
祐樹は曖昧な笑みを浮かべた。
後に康熙は嬉しそうに言った。
「岡田は、間違いなくJカップだ!!」
ただでは転ばない男。ちょっと特殊な趣味を持つ男。それが佐藤康熙である。
<了>