1、
彼は立ち上がり――
(僕に敵意を持っている)
――手を振りかぶった。
女の子が叫んだ。
ガラスが――
(彼の【力】が発動)
――粉々に破砕され、外側に爆ぜた。警備員たちが怒声を上げ、腰に下げていた兇器を引き抜いた。
拳銃の携帯が許されている警備員はここ以外にそうはいないだろう。正確に言えば彼らは民間企業ではなくこの学園、つまり国に雇われているわけだから、そういう超法的待遇があっても不思議ではない。
でも、
(その武器では意味がない)
小気味いい破裂音が連続した。迫力は皆無。それでも殺傷能力は十分。
銃弾が空中を――
(再び彼の【力】が発動)
――疾走するのが視えた。ゆっくり緩慢な動きだ。時間間隔が致命的なまでに鈍い。感覚だけが暴走している。身体が思うように反応しないのがもどかしい。
次の瞬間、銃弾の軌道は捻じ曲がり、赤く小さな花が咲いた。当たってしまった女子生徒は運が悪い。可哀想に。
彼が――
(彼は殺意を抱いている)
――僕を見た。ああ、ぐちゃぐちゃだ。綺麗にしないといけない。
綺麗にしないと――
(彼の【力】の指向性を変換)
――僕が気に入らない。不愉快になる。イライラする。
彼の【力】の矛先は僕に向いていた。放たれた。綺麗にしよう。
自らの【力】を全身に浴び、歪曲した力が多方向から働きかける。それは引き裂く力であったり、圧搾する力であったりした。
しかして――彼が爆ぜた。
彼の隣いた綺麗な女の子が悲鳴を上げた。恐怖と驚愕の感情に溢れた甲高い悲鳴だった。心の底から響いてくるような鬼気迫る声色だった。不思議と、その悲鳴が綺麗だなと思った。
ああ、彼が散らばってしまった。鮮やかな紅い水溜りに色々要らない物がぶちまけられている。混乱の極み、絶叫の氾濫、ぐちゃぐちゃ。雑多複雑な動き。みんな好き勝手に動いている。統制と言う言葉はここにはない、ぐちゃぐちゃ。この場所は乱れている。
綺麗に――
(リセット)
――しよう。
2、
――ブツン。
目を開けると、数式の書かれた黒板――正確に言えば黒板を映し出したスクリーン――が広がっていた。
授業中に少し居眠りをしてしまったようだ。僕は一番前の席にいる。けれど先生は気がつかない。
当たり前だ。目の前にあるのはスクリーン。先生は別の部屋で黒板を使って授業をし、その映像を僕らが見ているだけなのだから。これを授業と言うのだろうか。この行為に何の意味があるのだろうか。
ここは牢獄だ。英樹学園の制服を着た僕たちは、皆この牢獄に囚われている。
僕たちは人間失格の烙印を押された者たちだ。
人類はゆっくり壊れていった。人類の滅亡は核戦争の勃発でも、人間より優れた生物の侵略でもなかった。
――精神の欠落。
ある時から、心に問題を抱えた子供が生まれはじめた。彼らは先天的に心の欠落を持っていた。
当時の心理学者や精神科医はその子供たちの育った環境を要因に上げた。だが、それは違う。僕らは生まれたときから欠陥品だったのだ。僕らはこう呼ばれている【先天性神経欠損症候群】。
そのことに気がついた政府は、ある政策を打ち出した。
社会に不適合な者たちは一箇所に集め、監視すればいい、という歴史の手垢にまみれたシンプルな手だった。だけど犯罪を犯していない僕たちを監禁することは人権云々に関わるため表向きはできないことになっている。昔は色々な反対運動があったそうだ。
しかし、年々増え続ける異常者の凶悪犯罪に反対の声は次第に消えていった。他者をいとも簡単に殺し、笑っていられる【先天性神経欠損症候群】の者を同じ人間と認めるのを止めたのだ。なんとなく正しい気がする。
全ての【先天性神経欠損症候群】の人間が異常殺人を犯すわけではない。けれど――
全員が例外なく異常者だ。
【先天性神経欠損症候群】が忌避されたのにはもう一つ理由があった。その理由はある意味、異常精神より大きな衝撃となって人々の心に刻まれたらしい。
これらのことは、全部どこかの本で読んだことだった。
そうやって人々の心は僕たちを排除する方向に動いていった。そのころ政府は【先天性神経欠損症候群】のデータを示し、こう言ったそうだ。
――【先天性精神欠損症候群】の子供たちは、同じ症状の子供たちと生活することによってある程度の回復が見られる。
研究者たちはその根拠を「自分だけが世界から隔離されているわけではないことを知る」とか何とか言ったらしい。
このような経緯を辿って、全寮制の英樹学園は設立された。この学園はヒデキ学園と呼ばれる方が多い。僕はヒデキという響きが学校にそぐわないのでちゃんと正式名称で呼んでいる。
学園の表向きは集団生活を営むことによって社会性を身につけさせること。本当の目的は、異端者を外から隔離することである、と僕は思っている。
「GRYYYYYYィィィ――!! YHAAAAAァァ――!!」
僕の後ろで奇声が上がる。振り向くと今日、Fクラスに来たばかりの男子生徒が椅子を振り回していた。
授業は進んでいる。誰も驚かない。周りの人間は慣れていたようだ。自分の机と椅子を安全圏に移動していた。すぐに警備員が駆け寄り、彼を取り押さえた。
屈強な男二人に脇をがっちり固められ男子生徒は喚きながら連れられていった。どこに行くのだろう?
「あーあ、やっぱりね。あの子、一日も持たなかったか」
隣に座っている女の子が言った。彼女の逆隣の席は空席だったのが目に付いた。欠席だろうか。僕には関係のないことだ。
艶やかな黒髪を腰まで伸ばし、前髪は眉の上でバッサリと切りそろえられている。切れ長の瞳に、すっきりと通った鼻梁。可愛らしいというより美人系の女の子だった。
朝見たときからアイツは危ないと思っていてけど――Fクラスの先というものがあるのだろうか?
「あら、あなた知らないの?」
僕の顔を見た少女がナイフのように目を細めて、小馬鹿にしたように笑った。僕はよほど不思議そうな顔をしていたのだろう。心の中を読まれたような感覚は初めてではないから特に不快に思わない。
「僕もFクラスに来たばかりだよ」
「そうね。でも知らないのはちょっと……ま、いいわ。教えてあげる。ここはね、集団生活ができるか否かの境界線に立っている場所なのよ」
おしゃべりをしても注意する者はいない。警備員たちは前後の扉の前に戻っていた。彼らは授業に干渉してこない。おしゃべりなど注意することでもないのだろう。
「ふーん」
「症状の軽いものからA、B、C、D、E、Fってクラス分けされているでしょう。ここは最後なの」
「最後? ならさっきのヤツはどうなるっていうんだい?」
彼女は優雅に肩を竦めて、
「わたしが言えるのは、彼は二度とここには戻ってこないっていうことだけよ」
と言った。
つまりここが監獄の終端っていうわけか。
連れられていった男子生徒は二度と戻ってくることはない。ふーん、としか思えない事実だった。僕にはあまり関係のないことだ。
「このクラスはF。化け物たちのクラスなのよ」
彼女はにっこりと微笑んだ。到底化け物の微笑には見えない。
化け物、フリークス、F。
そういえば、異常犯罪者たちのことを【精神の怪物】と称した人がいたような気がする。どこでこの言葉を知ったのだろう……本だったような気がする。
「……へぇ、知らなかったよ」
僕がそう言うと、彼女は訝しげな視線を僕に向けた。少し驚いているようにも見える。
が、すぐに納得したように微笑んだ。
「ああ、あなたはそういう症状なのね」
何を納得しているのか僕にはわからない。でも、興味もない。
3、
昼休みになった。Fクラスの人間は学食に行くことはできないらしい。給食という形で昼食が運ばれてきた。自分で給食を取りに向かうも者はクラスの四分の一にも満たなかった。あとの人間はずっと机にフジツボの如くへばりついている。
僕の斜め右にいる女の子は俯いているため、長い髪が邪魔をして顔が見えない。ずっとその格好のままだ。その後ろにいる男子生徒はがりがりとシャープペンを机に走らせている。机は黒鉛に塗りつぶされていた。
ここは世界の終わりだ、と思った。
精神を病んでいく人類。様々な研究機関が血眼になって原因を究明し、抑止しようとしているが効果は上がっていないらしい。この教室は人類の未来の尺図なのかもしれない。
僕はコッペパンを口に運びながらぼんやりと病んだ世界の尺図を見渡した。ため息ばかりがこぼれる。
「ねぇねぇ……そういえばまだ名前聞いていなかったわよね」
隣の女の子はずっとこんな様子だ。どうして僕に付きまとってくるのだろう。Fクラスに来た人間がそんなに珍しいのだろうか。
「そうだね」
僕は曖昧に答えた。僕は昨日――だったけな、ま、いつでもいいや――Fクラスに向かうように指示された。そして案内されるままにこの席に座った。ただそれだけだ。
今までのクラスでは教室全員の前で晒し者にされながら自己紹介を強要された気がする。まったく拷問としか思えない。その拷問がなかった分Fクラスはましかと思ったけど、半日過ごしてみたところその考えは大きな思い違いだったようだ。
「そうだねって……そこは普通、名前を名乗るものじゃない?」
女の子は可愛らしく頬を膨らませた。美人はどんな表情をさせても似合うものだ。
「ここは普通じゃないんだろ」
僕は揶揄するように言った。
「そうね。あなたの言うとおりだわ」
彼女はクスクスと笑った。唇からこぼれた八重歯が綺麗だな、と思った。
「わたしは、ユキエ。さあ、あなたの番よ」
「カズヒロ」
「カズヒロくんね。よろしく」
「適当によろしく」
僕はユキエから自分の机の上に視線を戻した。トレイに載った給食が置いてある。給食は大して美味しくもないが、食べられないほどではない。食べることは大事なことだから、給食を食べないという選択肢は僕にはない。
僕は再びコッペパンを齧った。もそもそとしてあまり美味しいとはいえない。コンソメスープを口に含んで、一緒に喉の奥に押し込んだ。食物が喉を滑り落ちる感覚は嫌いじゃない。口腔内にあった物体が消えていく――お茶などを飲んで、口の中をリセットするときの気分は良いものだ。うん、こういう小さなことに幸せを感じられるってことは良いことなんじゃないかと思う。
僕はそのことを彼女に話した。すると彼女はころころと笑い転げた。
「あははーっ。面白い。カズヒロくん本当に面白いよ」
僕は別に面白いことを言ったつもりはない。けれど、彼女の満面の笑みには嫌味がなかったので僕は笑わせるままにしておいた。
机の上の給食を食べ終えた僕は、食器やトレイなどを配膳台に戻した。
振り向く。教室を見回すことができた。二つの空席を除きみんな自分の机にいた。
休み時間の度に感じていた違和感の正体に気がつき、僕は眩暈がする思いだった。席に戻ってきた僕はユキエに聞いた。
「どうしてみんな、黙っているんだい? いくらFクラスだからって教室に会話がないっていうのはおかしいよ」
ユキエはきょとんとし、そして「当然じゃない」と言った。
「会話によるコミュニケーション能力を持っている子なんて本当に少数よ」
ああ、なるほど。彼女が僕に頻繁に話しかけてきたのは、話せる人間が僕しかいないからだ。
いや――おかしい。会話が出切る人間がユキエと僕しかいないのなら、少数なんて言い方はしないはずだ。少数ならば一人ではなく複数のはずだから。
「他に話せる人はいるの?」
「いるけど今日は……」
と、彼女は逆隣の席を見た。あの空席がこの教室で会話する能力を持っているもう一人の人物らしい。おそらくこの教室には彼女とその人物くらいしか会話によるコミュニケーション能力がなかったのだろう。僕を加えて三人。でも、一人は僕と入れ違いにいなくなってしまった。
だからこそユキエは僕にしきりに話しかけてきているのだ、と予想した。
がたん、と椅子が倒れる音がした。すぐ近くだ。音がする方向に振り返る。
斜め後ろの髪の毛を垂らしたまま彫像のように座っていた女の子が立ち上がっていた。痩せこけた頬、窪んだ目元、目の下の隈は特殊メイクをしているんじゃないかと思うほどくっきりと見えた。目がやたら大きくぎらついている。もう少し健康的ならきっと美人なのだろう。けれど彼女から漂う暗い空気がわずかに窺える美貌を打ち砕いていた。
がくん、と頭が仰け反り、首がぐるりと百八十度回転した。彼女は再びうな垂れるような姿勢になっている。長い髪が垂れ、また顔が見えなくなった。
警備員の一人が動き出した。彼女の席に素早く近づいてくる。だが、彼女を拘束しようという動きはない。メモリーレコーダーを取り出して、彼女の机に置いた。そして警備員は倒れた彼女の椅子を直し、そのまま彼女の様子を見ている。
なんだろう。この異様な空気は。
「金牛宮の月、十二番目の日。この場にいた二人が消えるだろう」
女の子の声とはとても思えない老人のようにしわがれた声が聞こえた。信じられないがあの女の子が言っているようだ。
女の子は糸がぷっつりと切れたマリオネットのように、がくんと膝が崩れた。椅子に座ったというより、崩れた場所に丁度椅子があったような動きだった。彼女は何事もなかったように首を垂らした姿勢に戻った。そのままピクリとも動かない。
警備員はメモリーレコーダーを拾い上げ、足早に教室を出て行った。
僕はユキエを見た。僕の意を汲んだユキエは説明を始めた。
「彼女は典型的な【語り部】よ。未来の事をアットランダムに言うの。出て行った警備員は彼女の言葉のデータを研究部門に渡しに行った。これで満足?」
「うん」と、僕は頷いた。
「この場にいた二人……か。近くのことを予言したのって初めてじゃないの?」
彼女は僕に聞いているようだった。答えようがない。僕は何も知らないのだから。僕は曖昧に頷いた。
「二人って……」
ユキエは隣にある空席を眺めた。
この教室には今、二つの空席がある。その二つは僕がここに来たときからいない生徒と、途中で発狂して連れて行かれた男子生徒の席だ。これで二人。
「消えちゃったんだ……」
と、ユキエは言った。まだ事実と確定していないのに。
どうやらユキエは僕の斜め後ろにいる女の子の予言を完全に信じているようだ。ユキエは残念そうな顔をしている。話し相手が消えてしまったのだから当然だろう。
ふと、彼女は僕を見た。そして声も出さずに笑った。何故かは知らないけど、僕はそのユキエの顔が新しい玩具を見つけた子供のような顔に見えた。
僕は視線を逸らし、斜め後ろの【語り部】の女の子を見た。彼女は、最初に見たときの姿勢のまま動かない。
彼女には特殊な能力があるようだ。
特殊な能力。前世紀で騒がれていたと言われている超能力とは違う、世間が認め、政府でさえ研究の対象にしている能力だ。
世間一般ではそれらの能力を持つ子供たちを【ヴォイド症候群】と言う。
これが【先天性神経欠損症候群】の人間が忌避された最も大きな理由だろう。【先天性神経欠損症候群】の人間全部が【ヴォイド症候群】ではない。確率的には1000人に1人くらいの割合だそうだ。
一番初めにこの疾患が存在することを提唱した人の名前を取ったらしいが、虚無症とは巧く言ったものだ。
【ヴォイド症候群】の人間が持つ虚脱感、虚無感をよく示している病名だと思う。
病名? そうだ。これは病気なのだ。不治の病、遺伝的に決定している病。通常の人間より優れた特殊能力があったとしても、普通の人間より著しく精神が欠落している者たち。
中には念動力や念動発火能力などの能力を持った子もいるそうだ。
人を簡単に殺せる能力を持った精神異常者。化け物と呼びたくなるのも頷ける。だがそれはほんの一部――砂場を全体として例えると、一粒の砂くらいの数しかいない。人を簡単に殺せる能力を持った人間は【ヴォイド症候群】全体の数パーセントに満たないのだ。その数パーセントの化け物のために【ヴォイド症候群】の人は全員が人間とは考えられていない。化け物扱いだ。
空漠とした精神。
荒廃している心。
不釣合いな能力。
【ヴォイド症候群】は社会の敵の別称と言ってもいい。
僕は改めてクラスを見渡した。ここにいる人間はほとんどが【ヴォイド症候群】なのだろう。いままで気がつかなかったが、天井の四隅にゆっくり首を動かすカメラを発見した。
檻の中にいる僕たちは監視され、そして観察されていた。
ここは化け物たちの檻。Fクラスなのだ。
4、
そこは何もない白い部屋だった。床はタイルのようになっていた。上を見るとシャワーの蛇口のようなものが見えた。シャワールームにしては大きすぎる。
僕は踵を返し、自分をこの部屋に連れてきたユキエを見た。
背中に氷を入れられたような悪寒が走った。
ユキエは笑っている。本当に嬉しそうに笑っている。どうして、その顔を恐ろしいと思ってしまうのか。
「わたしの名前は柳洞崎雪絵っていうの。ねぇ、カズヒロくん。柳洞崎って苗字聞いたことない?」
楽しそうに聞いてくる。喉がからからに渇いて、身体が強張っている。僕の身体はどうなってしまったのだろう。
柳洞崎? ………珍しい苗字だ。でもよく聞く苗字でもある。柳洞崎――それは現在の日本の首相と同じ苗字。
ユキエは「んっ? どう。わからない?」と僕に答えを促した。
「……柳洞崎首相と同じだね」
僕は舌を湿らせてから言った。上手く声が出でほっとした。
「パパだもの」
それは驚きだ。けれどその驚きは今の異様な雰囲気に比べれば小さなことだ。
「あんまり驚かないんだね」
「すごく驚いているよ。ところで、この部屋は何なの?」
「この部屋はパパがわたしにプレゼントしてくれた特別な部屋よ」
部屋の空気の重さが二倍になったみたいに圧迫感がある。
僕はトラックに轢かれペチャンコになったちっぽけなカエルを想像した。自分と惨めなカエルが重なる。
「へ、へぇ……でも知らなかったよ。独身の柳洞崎首相に娘がいるなんて」
「でしょうね。世間一般にはわたしの存在はいないことになっているんですもの。だって――」
彼女がナイフのように目を細めて僕を見た。
「殺人依存症――それも【ヴォイド症候群】おまけ付きの娘がいるなんて公開できないでしょう?」
僕は悟った。この悪寒の正体も、僕を圧迫する空気も、彼女がどうして嬉しそうなのかも、どうして潰れたカエルを想像したのかも。
彼女は柳洞崎首相がこの部屋をプレゼントしてくれたと言った。この部屋は遊びが終わったら簡単に片付けられるようにシャワーが取り付けられている殺人遊技場なのだろう。
(彼女は僕に殺意を持っている)
僕は知らず知らずの内に後ずさりしていた。
彼女が一歩を踏み出し――
(【語り部】は二人、、消えると言った)
――制服のポケットから小さなマスコット人形を取り出した。
「わたし、この人形が大好きなの」
言って、人形の首を捻りきった。次は両腕を、その次は両足を、最後に胴体が二つに引きちぎられた。力を篭めているようには見えないのに、いとも簡単に人形はバラバラになってしまった。
ユキエは両手に摘んでいた人形の欠片を放した。殺人依存症の令嬢は床に散らばった人形の残骸を眺めている。
「かなしいわ。本当にかなしいの。わかる? いいえ、わからないでしょうね。わたしは人の形をしているものが好きなの。好きで好きでどうしようもなく好きだから、バラバラにしたくなる」
ユキエは本当に悲しそうな顔をしている。それがどうしようもなく怖い。
「仕方がないの。人形では満足できない。わたしは人間をバラバラにしないと生きていけない。それも気に入った人間でないと駄目なの。どうしてもよ。悲しいことだわ」
目許は憂いを湛えているのに、口元は悪魔のように吊りあがっている。なんという矛盾だろう。
「最初にバラバラにしたのはママよ。本当に悲しかったわ。でも仕方がないの。わたしが人をバラバラにするのはご飯を食べることと一緒なんですもの。生理現象と同じなのよ」
だからと言って許される行為ではないと思う。
「あなたにとって不幸なことはわたしに人間を簡単にバラバラにする【力】があったこと、わたしが柳洞崎の一人娘だったこと、そしてあなたが選ばれてしまったこと」
背中に堅いものが当たった。いつのまにか僕は壁際まで後退していた。もう後ろには下がれない。
彼女は――
(警備員に連れて行かれた男子生徒は、はたして消えたと言えるのだろうか)
――ゆっくりと歩いてくる。
「僕が、選ばれた?」
「そうよ。あのクラスにはわたしが殺すために来る生徒がいるのよ」
「それが……僕?」
僕は壁を背に横歩きしながら言葉を紡ぐ。
「もう一人いたのよ。タクヤくんっていうんだけれど。彼も攻撃性の【ヴォイド症候群】だったから、カズヒロくんみたいにお話しするつもりはなかった。睡眠薬で眠らせてからバラバラにする予定だったのよ。でも、いなくなっちゃった。だからカズヒロくんをバラバラにする。我慢できない。こうなってしまったら収まりがつかないの。生理現象を我慢しても身体に悪いだけだわ」
娘が娘なら父親も父親だ。娘のために殺害用の部屋を作り、しっかり生け贄まで手配しているんだから。
肘が壁に当たった。ついに僕は横にも動けなくなってしまった。僕は四隅の一角に追い詰められていた。
ユキエが――
(一人は消えた。それはタクヤという男子生徒だろう。もう一人はこれから消える)
――僕に腕を伸ばしてきた。
僕は動けない。ユキエは優しく僕の頭を両手で挟んだ。
「大丈夫。痛くしないから。カズヒロくんとはほんの少ししかお話できなかったけど、その時間は結構楽しかったよ。カズヒロくん面白かったし。お別れだね。悲しいな」
ユキエは泣き笑いのような表情を浮かべた。
ぐっ、と頭を――
(消えるのは――)
――ねじ切った。
首の骨が折れ筋肉が引きちぎられる音はどこか現実感がなかった。
(リュウドウザキユキエだ)
ぼとっ。ユキエの首が落ちた。
首がなくなった胴体が僕に抱きつくようにもたれかかってきた。首からびゅっびゅっと血が噴き出し、僕に赤いシャワーを浴びせていた。生暖かい。鼻の奥にこびりつく様な臭いがする。
びゅっびゅっ。
僕が身じろぎするとユキエの身体は床に倒れた。
床は赤い液体でびちゃびちゃしている。
綺麗に――
(リセット)
――しよう。
5、
――ブツン。
目を開けると、数式の書かれた黒板――正確に言えば黒板を映し出したスクリーン――が広がっていた。
授業中に少し居眠りをしてしまったようだ。僕は一番前の席にいる。けれど先生は気がつかない。
当たり前だ。目の前にあるのはスクリーン。先生は別の部屋で黒板を使って授業をし、その映像を僕らが見ているだけなのだから。
「GRYYYYYYィィィ――!! YHAAAAAァァ――!!」
僕の後ろで奇声が上がる。振り向くと今日来たばかりのクラスFに来た男子生徒が椅子を振り回していた。授業は進んでいる。誰も驚かない。周りの人間は慣れたものだ。自分の机と椅子を安全圏に移動してやがる。すぐに守衛が現れ、彼を取り押さえる。
屈強な男二人に脇をがっちり固められ男子生徒は喚きながら連れられていった。
彼は【不合格】と判断されたのだ。
僕は隣を見た。空席が二つ並んでいた。
<了>