5、
その日、村田は気分よく酔っていた。この男は酔っ払うと誰彼かまわず自分の話をし始める癖をもっていた。
愚痴やつまらない話なら聞かされる者は顔を顰めるだろうが、村田の話はなかなかに面白かった。彼は酔ったときに話したことを憶えていないので、素面のとき、同じ話をしてしまい「それ、この前聞いたよ」と言われてしまう。そんな四十台後半の中年であった。
この日も村田は上機嫌に見知らぬ男に話し始めた。その男はふっくらとした顔つき――愛嬌のあるたぬきのような柔和な顔をした中年男性だった。独特のイントネーションの声がやけに心地よく耳に響く。
同じくらいの年代だろうと村田は予測した。
ラジオがお洒落なジャズを流している。ピアノが流れるような音を紡ぎだしている。趣味のいいBGMだ。
機嫌をよくした村田は饒舌に話し始めた。
「俺がさぁ昔、地方にいたときよォ。面白いタクシーに乗ったんだよ」
「へぇ」
と、男は興味深そうに返事をした。村田は男の関心を引くような話題を選んだのだ。
「旦那、そりゃどんなタクシーですか?」
「『TAXI』とかいうぶっ飛んだ映画、あっただろ」
「ええ、フランスの映画でしたっけ」
スポーツカーに改造されたタクシーがカーアクションを繰り広げていく痛快な映画だ。
「そぉそぉ。あれ、の客を体験しちまったのよ」
男は苦笑したようだった。
「旦那、冗談はいけませんぜ。あれは映画だからこそですよ」
「俺もそう思ったんだがよォ。ま、あの時もかなり酔っていてよ。夢じゃないかと思うんだな」
男は村田を振り返って見た。
「旦那は今晩も、相当酔ってますねェ」
「そうよ。まぁ、俺の夢の話でも聞いてくれや」
「ははは、聞きましょう。聞きましょう」
村田はにやりと笑って唇を舐めた。こうすると滑らかにしゃべりだせるような気がする。村田の癖だ。
「あの日はちょっと遠くで一杯引っ掛けたんだ。高校時代の知人に会っていたんだな。うん。だがよぉ。そいつ、中座しちまったんだよ。何か事情があったんだが、そりゃ憶えてない。仕方ないな、と思ったのは記憶している。まーそれで俺は、終電を逃しちまったんだ。そこ田舎だから十二時前に終電なのよ。信じられる?」
「旦那、この辺もそのくらいですよ」
「そうだったんかいな。そうかもしれねぇな」
村田はうんうんと納得したように頷いた。
「で、俺はタクシーを拾ったんだよ」
「問題のタクシーですね」
男は合いの手を入れた。テンポのよいタイミングだったので村田は「そう!」と声の大きさをワンランク上げた。
「しばらくは普通の走ってんだ。だが周りの景色がどーにもおかしい。それもそのはず、そのタクシーは山に向かってたんだな」
「はあ、山……ですか」
「一山超えた場所に住んでいた部屋があったんだな。だが、そのタクシーが通る道は普通は誰も使わねぇ峠道だ」
村田はぼんやりと空中に視線を漂わせた。記憶を探っているのだ。
「峠に差しかかった所ら辺……だったけな。いや、最初に乗ったときかもしれねぇ。ま、運転手が言ったんだ「お急ぎですか」ってな。俺はそのとき、特に急いでいるわけはなかったんだが、元々、俺ぁ速いのが好きだったんだ。うん、だから「急いでくれ」って言ったのよ」
「ははあ、なるほど。それで映画の『TAXI』みたいになったんですね」
話の先が読めたのか、男は楽しそうに言った。
「それが凄いのよ。ドリフトっていうのか。子供にムリヤリ乗せられたジェットコースターなんて目じゃないくらいのスリルだったよ」
「へぇ、旦那。そりゃおそらく夢ですぜ」
「はははははははは」
一頻り笑って、その話は終わった。
「それにしても、周りが淋しいところだねぇ、木しか見えないよ」
村田はガラスの向こうにある光景を見ていた。
「田舎ですから」
男は素早くシフトチェンジした。村田を乗せたタクシーは道を走っていく。
1、
地元では走り屋の聖地として有名な峠。闇夜を車のヘッドライトが切り裂いていく。
甲高いエグゾーストを響かせ、峠最速を自他共に認めるランサーエボリューション――通称ランエボが駆け抜けていく。
暴走族の爆音とは違う本物の音――獣の様な咆哮が夜の静寂に響き渡る。
「キテル! キテル! 俺はキテル!」
運転席でハンドルを操作しながら、祐二は興奮した様子で「キテル」を連呼している。
アドレナリンが全開、アクセルも全開。脳内分泌物による軽い麻薬のトリップ状態。心臓の音が高鳴る。マシンの隅々まで祐二の意識が行き渡っている。
「俺は今、マシンと一体化しているゥゥゥ!!」
タイヤが伝えてくる路面状況、メーターが示すスピード、そしてドライビングテクニックの肝ともいえるタイヤの状態。まるで自分の一部のように手に取るようにわかる。
「ブレーキポイントはここだァ!」
祐二は普段は大人しい青年なのだが車に乗ると人が変わったようになる。独り言を連発しながら、恐ろしい運転をする。恐怖感がぶっ壊れているんじゃないかと思われるほどの突っ込みをする走り屋だ。
だが彼に言わせて貰えば恐怖感はもちろんある。恐怖感がなかったらギリギリまで突っ込むことができるはずもない。
全力のブレーキング。一トンを軽く超える車体がカーブを曲がれる曲がりきれるレベルまで減速、惚れ惚れするようなコーナリングでコーナーを曲がってく。テールは滑らない。ドリフト走行よりグリップ走行の方が速いというのが定説だ。
タイヤのグリップを全開に使ってこそコーナーは速く走れる。
「祐二さんすげぇス」
助手席に座っている祐二のチームの後輩が興奮した声を上げた。
「次、左の高速カーブッス」
「おうよ!」
そのとき、きらりとバックミラーに光が走った。
「おい、どっかの馬鹿が俺に喧嘩ふっかけてきているぞ」
「馬鹿な奴ッスね。今の祐二さんは最高にキレてますからね。軽くぶっちぎってやりましょうよ」
「当然! すぐに見えない位置までちぎってやるよ」
シフトダウンをしながらブレーキング――走り屋には当然の技術トゥー&ヒールを決めながらコーナを抜けていく。
立ち上がり――タイヤが地面をがっちり噛み、DOHCターボエンジンのパワーを路面に伝える。立ち上がりの加速に関して、ランエボに勝てる車はそうは存在しない。
だというのに――バックライトに光が見える。
気のせいだろうか、先ほどよりもほんの少しだけ近い気がした。
2、
「祐二さんの車が来るぜ」
数名のギャラリーの中心の信二のチームメイトがいた。手にはストップウォッチ。このカーブでのタイムを計測する係りだ。
暗闇からヘッドライトの光が現れると、少量ながらギャラリーが沸いた。
目の前を通過する瞬間、ストップウォッチを止めた。タイムを確認して、興奮が爆発する。
「すげぇぜ。かなり縮めてきてる。今日の祐二さんのアタックは相当――え!?」
再びヘッドライトの光がギャラリーたちを照らし出した。
ものすごいスピードで車がガードレールに向かって突っ込んでくる。ストップウォッチの男は戦慄した。
(やべぇ、どの馬鹿かわかんねぇが、あのスピードで曲がりきれるはずがねぇ)
その車は天井に見覚えのある“クローバー”のマークを点灯させていた。助手席の前面にある電光板には『爆走中』と白い文字が浮かび上がっていた。駅前などでよく見る車種だ。峠では絶対に見ることのない車――
「タクシー!!?」
驚いている暇はない速く逃げなければ、
「や、やべぇぞ!」
ギャラリーたちが後退さる。その目の前で――
ギュルルルルルル!!
甲高いスチール音を立てて、四輪がスライドし始めていた。
車頭がカーブの内側を向いているが、いかんせんスピードが速すぎる。そのまま滑ってガードレール当たる――はずだった。
空き缶一個分――もしかしたら僅かにかすっていたのかもしれないがそのくらいの超ギリギリのラインで車がドリフトしていく。
ストップウォッチの男は信じられないドライビングテクニックを目のあたりにしていた。
そのタクシーの車種はありがちなクラウンだった。
クラウンは四輪駆動である。ドリフトは後輪駆動(FR)車が構造上もっとも適している。四輪駆動はドリフトに向く車ではないのだ。
だが目の前のタクシーは見事にドリフトを決めていた。
呆然とするギャラリーを尻に、タクシーは恐ろしいスピードでコーナーを抜けていった。
6、
「少し聞きたいんだが」
村田は重たい瞼を擦りながら言った。
「はいはい、なんですか?」
「後部座席のシートベルトとは変わっているね。それにこのシート、普通のとは違うみたいだけど」
村田は自分がしているサーキット御用達の四点シートベルトを指して言った。後部座席用に改造された代物だった。
「この車、サスが弱くて、ほらちょっと揺れるでしょう。お客様の安全第一ってことで取り付けてあるんですよ」
「へぇ、ここら辺のタクシー会社はそんなことをしているのか」
「不景気ですからね。サービスを向上させないとお客さんが逃げちまうのさ」
乗り心地より身体の固定を優先したレース用のシートなのだが、酔った村田は“最近のタクシーは凄いねぇ”などと勘違いしていた。
「ふわぁぁ、しっかし横揺れするな。この車」
「すいません。あっし、あんまり運転が得意でないもので」
謙遜するように男は言った。
「おいおい、それで大丈夫なのかい?」
村田は冗談めかして言った。
「得意でない分、気ぃつけて運転してますから無事故で通ってます。あと、あっしは道の暗記とトークが売りなんですよ旦那」
「なぁ〜るほどね」
村田はまた欠伸をした。タクシーは順調に走っている。
3、
「どこのどいつだ!」
祐二は焦っていた。自分は最高にキレたドライビングをしているはずなのに、どんどん後ろのライトが大きくなってきているのだ。
「くそがぁ!」
祐二はステアリングを切りながら苛立ちをぶつける。コーナーのおかげで一瞬、後続車が見えなくなる。だが、すぐに謎のヘッドライトが祐二の背中を脅かす。現れるタイミングがだんだん速くなっていることが信じられない。
「おい! 俺のドライビングは遅いか?」
「そんなことないっス。今日の祐二さんは最高にキレてるっす」
「じゃぁ何で追いつかれんだよォォ!」
アクセルを全開まで開けながら叫ぶ。
「祐二さん、あれもしかしてタクシーじゃないスッか?」
「はぁ!? タクシー! 馬鹿かお前は。タクシーがどうやって俺のランエボに追いついてくんだよ」
言いながらバックミラーを見る。確かに天井部分にタクシーにありがちなシンボル見える。目を疑いたくなるような光景。しかし、何度バックミラーを覗き込んでみてもその光景は変わらなかった。
「祐二さん、次――三連S字っス」
そこはこの峠のコースでタイムを縮めるに当たり重要なポイントの一つだった。いかにスピードを落さず三つ続くS字カーブを抜けるか。そこが勝負の分かれ目だ。
8、
「でも旦那。この車横揺れはするけど、実は凄い機能がついているんですよ」
「ふーん」
「旦那、気づきませんか? 全然音がしないでしょう」
言われてみれば。とようやく村田は気がついた。ジャズのBGMと運転手の男の声以外の聞こえない。車のエンジン音などが聞こえてこないのだ。
「この車は清音性については世界に誇る技術が使われているんです。反位相音波共鳴とかいう小難しい装置なんですが、音を吸収するんじゃなくて、打ち消すらしいです」
聞きなれない専門用語が飛び出してきた。村田は音関連の知識についてはほとんど知らないと言っていい。だが、村田は機械関連の仕事に勤めているため興味があったので聞いてみた。
「そりゃどういうわけだい?」
「プラスとマイナスみたいなもんですよ。プラスの音にマイナスの音をぶつけてゼロにするんです」
「ほぉ。そりゃ凄い技術だな」
「ええ、静かなおかげで大変お客様に好評なんですよ。寝ちゃう人が多くて困り物ですがね」
そこで中年二人は「ははは」と笑いあった。
ジャズが一曲終わった。空いた間隙に笑い声が落ちる。
4、
後ろにいる。バックミラーを見なくても迫ってくる圧力プレッシャーでわかる。
「信じられねぇ。この俺が、後ろからせっつかれているだとォォッ!!」
祐二のランエボの後ろにはピッタリとタクシーがついている。走り屋たちのドッグファイトに限らずドライバーにとって追い抜きは誉れと同時に屈辱である。当然のことだが追い抜いたのが自分なら誉れ、相手なら屈辱である。
この峠の勝負において追い抜きは難しいとされている。理由は簡単だ車道の幅が狭い。ただそれだけに尽きる。
だが、祐二は肌で感じていた。後ろの車が自分の車を追い抜こうとしているのを。
祐二が後ろの車に負けているのは確かだろう。だが、抜かれるわけにはいかなかった。追い抜かれるというのは絶対的な実力の差を示すことになる。それだけは避けなければならない。この峠最速を自負してきた祐二の最後の矜持だった。
当然、祐二の走りはカーブのインを塞ぐ走り方になる。スピードよりもコースブロックを重視した走りだ。
勝負の三連カーブに突入! 祐二はブレーキを全力で踏む。ABSが作動、靴底をガタガタとブレーキペダルが押し返してくる。カーブを曲がるぎりぎりの速度でステアリングを最小の舵角に切り込む。
車の操作は三つしかない。走る。止まる。そして曲がる。全てはタイミングが勝負である。ブレーキング、ステア操作、アクセルコントール、そして理想的なライン取り――全てが一体となってランエボが一つ目のカーブを走り抜ける。
祐二はミラーを覗き込む愚を冒さない。後ろを見たい衝動にひたすら耐える。音でわかる。華麗にして豪快な四輪ドリフトを駆使してアウトから攻め込んできている。
一つ目のカーブをクリア!
S字カーブはインのままの車道を走っていれば次は自然とアウトになる。
「うおおおおおお」
インをとらないと追い抜かれる! その思いが祐二のランエボを突き動かす。
車の先を被せるようにインの中のインを突く! これでランエボの車体が邪魔をして、タクシーは追い抜くことができないはずだ。
刹那――インにいたはずのタクシーの気配が消えている。
「アウトだとォッ!?」
タクシーは車の先ノーズ半分だけ下がって横にいた!
「しまった!!」
三連のカーブ。インをとった次はアウトの車道を走ることになる。つまり――!!
どこにでもあるようなタクシーが完璧なドリフトを見せ、最後のコーナーにインで滑り込んでいく。ノーズがガードレールギリギリまで捻りこまれている。インベタの――さらにイン!!
鮮やか過ぎる追い抜きだった。
その後祐二は走り屋仲間たちに伝説のタクシーのことを話して聞かせた。ほとんどの仲間は「嘘だろ」と笑っていたが、別の地方から遠征に来た仲間がそのタクシーのことを知っていた。曰く『公道最速のタクシー』と。
そのタクシーは個人タクシーで、さらに同じところには留まらないという奇妙なタクシーだった。幽霊とまで噂されていた。
丁度、五年前の出来事であった。
9、
「はい。おまたせしました。着きましたよ。旦那」
「んお?」
睡眠と覚醒の境を漂っていた村田はぼんやりと瞼を開いた。
「着きましたよ。あなたの家ですよ」
「おう! ご苦労」
村田はそう言って四点シートベルトを外し、財布を取り出した。
お釣りと領収書の紙を貰い自動ドアを開けたとき、男が振り返った。村田は男の顔を初めて真正面から見た。
「旦那。今回は吐きませんでしたね。旦那に言われたように車を改良しましたし、あっしも快適な運転を心がけましたよ」
タクシーは赤いテールランプを残し、角を曲がって視界から消えた。
村田はぼんやりと考えた。
はて、タクシーで吐いた事は話したか? そういえば――あの顔は……
あのイントネーションの声をどうして忘れていたのか。村田は旧知の人間に偶然であったような……とはちょっと違うが、それに一番良く似た不思議な気持ちになった。
にやりと笑って、タクシーが去った方向に親指を立てた。
<了>