矢が降る世界









 1.世界には矢が降るようになった

 いつからか、世界には矢が降るようになった。
 その矢は、どこからともなく現れて、人間の心臓を穿つ。それは決して外れない。絶対に貫く。
 ただ一つの例外なく矢に貫かれた人間は死ぬ。いや、消えるのだ。すぅ、と。風景に溶けるように消えてしまう。
 ある情報機関によると矢は一日一万本、降るらしい。どうやって計測しているかわからないので信用の置けない数字である。それでも人々はなんとなくその数字を信じていた。
 矢が降り始めた当時、世界は大混乱に陥った。
 なにせ、一日一万人、確実に死ぬのだ。
 いつ矢が飛んでくるのか。なぜ矢が降るのか。それは誰にもわからなかった。
 ある人は神の意思と言った。罪深き人間を断罪する神の矢だ、と。
 ある人は集団自殺願望の具現化だと言った。増えすぎた人間に対する抑止力が、人間の心の中にあり、深層心理が働きかけ、自殺させる。それが人間には、矢に貫かれるように見えるのだ、と。
 その少年にとって理由なんてどうだってよかった。彼は悠斗ゆうとという名前の少年だった。少年は理由を知っていたし、こうも思っていた。
 ――どんな理由だって、矢は降るんだから。と。




 2.両親は、矢に貫かれた。

 少年の両親は、矢に貫かれて消えた。少年が、朝起きると両親は消えていた。
 矢は人間だけを貫く。服などは貫かない。人間だけが消える。服は消えない。その衣類には矢による穴は開いていない。
 両親のベッドには、二人の寝巻きだけ残されていた。
 少年は二人がいたという形骸を見ても不思議と悲しくなかった。ただ少し罪悪感が胸に満ちた。
 独りで生きていかないといけないんだなと、少年は思った。
 だが、その少年の決意に似た思いは両親の葬式が終わったときくつがえされることになる。
 父方の姉にあたる伯母が少年を引き取ると言ったのだ。伯母は春子と言った。少年は拒否しなかった。
 伯母には妹がいた。漆黒の髪を背中まで伸ばしたまだ若い――後で少年が聞いたところギリギリ十代だそうだ――叔母。漆黒の喪服に恐ろしく映える雪肌せっき。垂れ目がちの優しそうな目元に涙を浮かべていた。ハンカチで目元を拭う仕草が、とても美しく見えた。
 葬式が終わった後、少年は今まで住んでいた家とは違う家に行った。
 同じ市内にある家だったので転校しなくていいのよ、と伯母は言っていた。
 少年は春子さんの妹を「おばさん」と呼んだ。それしか呼び方を知らなかったからだ。二人が振り返った。少年の視線で、自分が呼ばれていることに気がついた叔母は苦笑しながら言った。
「わたしのことは真冬まふゆって呼んでね」
 少年は真冬という名前は変な名前だなと思いながら頷いた。
 父の名前は夏雄だ。きっと季節が好きな祖父母だったのだろう。秋絵という名の叔母がいたらしいが、少年は顔も知らない。少年が生まれる前に事故で死んでしまったらしい。
 春子伯母さんの家は古い家だった。元は祖父母たちと住んでいたらしい。少年はぼんやりと何回か訪れたことがあることを思い出していた。まだ、祖父母が生きていた頃の記憶だった。祖父母はもういない。六年前に祖父が、その一年後、追うようにして祖母が亡くなった。今は二人だけが住んでいる。これから三人になる予定だ。
 縁側に小さな庭がある。それが幼い頃に訪れたことがある古い家の記憶だった。少年は庭を見た。祖母がアサガオに水をあげている様子が蘇った。それは幻だった。
 小奇麗だったはず庭は、手入れがされていないらしく雑草が群生していた。少年は少し悲しくなった。
 春子伯母さんと真冬は気丈に振舞っている。少年の前では彼を元気付けようと明るく振舞っていた。
 少年は不思議な匂いのする部屋で布団に入った。何も感じていない。
 両親が死んだというのに、悲しくない。悲しいと思えない。やはり自分は“普通”ではないと少年は思った。
 矢が刺さる瞬間が見れたらよかったのに。そのことだけが残念だった。




 3.矢は認められた

 矢が降り始めた当初、信じる者と信じない者がいた。当然だろう。いきなり矢が飛来して、人間を消していきます、と言う話を誰が信じるだろうか。
 矢のことが公認になったのは国会のテレビ演説だった。
 当時の首相が、テレビの前で矢に貫かれたのだ。矢はどこからか現れ、首相の心臓を貫いた。VTRを何度も分析しても、わからなかった。首相は最後に微笑みながらこう言った。
「日本国民の皆さん。私は、矢に貫かれました」
 そして消えた。それからはパニック。今まで懐疑的だったメディアもこぞって矢を取り上げ、研究者たちは第一に矢ことを研究し始めた。怪しげな宗教団体が台頭し、テレビや街角で「私こそが救世主だ」と叫んでいる。
 政治家たちの中には自分だけシェルターに逃げようとした者もいた。総理大臣を決め、国政を立て直さなければならない時期に己の保身を考えた者たちだ。だが、どんなところでも矢が防げないと知ってその者たちはどうしたのだろうか。
 矢に貫かれた人間はすぐには消えない。“天使がくれた時間”と呼ばれている時間が経過すると消えるのだ。その時間は人によってまちまちで、数分で消える人間もいれば半日くらい消えないでいる人もいる。
 だが、一日を越えた例は一度もないらしい。
 もう一つ、矢が刺さった人間には不思議なことがある。笑顔なのだ。どんな人間も清々しく晴れやかな笑顔をして消えていく。純真無垢な天使のような笑顔――“天使がくれた時間”はここに由来があるらしい。
 近年ようやく落ち着いてきた。人間は慣れる生き物である。どんな状況でも、仕方ないと受け入れることができるのだ。全人類的に諦めに似た感情に侵蝕されていった。人間の世界は緩慢に滅亡へと向かっている。




 4.矢が降ろうが降るまいが、人は死ぬ

 少年は学校で授業を受けている。
 学校は次々と閉鎖されているらしい。学校に行く子供たちが減っているらしい。子供であろうと矢に貫かれる。矢はとても平等なのだ。今にも死にそうな老人であろうと、生まれたばかりの赤ん坊だろうと、矢は例外なく人間を貫く。
 どうせ死ぬんだから。一部の子供たちの思考はそうシフトした。少年犯罪が増えた。自暴自棄になった人間たちは、自分ひとりでは死ねず、周囲を巻き込んで死んでいった。
 教育委員会などが必死になって歯止めをかけようとしたが、まったく効果をなさなかった。
「どうせ死ぬんだから、学校に行っても仕方ない」と。
 子供たちだけではなく親たちもそう言い出した。全体の一割程度だった。割合で見ると一割だが、具体的な数字で示されるとかなり多いことがわかる。
 少年は彼ら主張がイマイチ理解できないでいた。
 矢が降ろうが降るまいが、人は死ぬ。そんなことを考えているうちに授業は終わってしまったらしい。休み時間になって、周りで友達がふざけている。
「バーカ、お前なんて矢に貫かれちまえ」
「そんなのヤー」
「ギャハハハハハ、ナイスギャグじゃん」
 何が面白いのか少年には分からない。
「あはは」
 それでも愛想笑いを浮かべる。それだけでいい。こいつらが求めているのは表面的な薄っぺら意関係だ。少年に深く関わろうとはしてこない。少年も関わって欲しいとは思っていない。少年はこうも思う。彼らはきっと怖いのだろう。いつ矢が降るのかわからず、冗談で笑い飛ばさないと矢のことを話題にできないのだろう、と。
「それでさー、うちのババアがよ。うるさくってさー。ああー神様。早くあのババアに矢をうちたまえ」
 少年は意識から雑音を削除した。耳から入ってくるが脳は認識しない状態にする。心の中のスイッチで耳を塞ぐことができる便利な能力だ。
 くだらない会話。
 おきまりの日常。両親が死んだから、何が変わったというのだ。
 息が詰りそうな街。
 次第に消えていく人間。
 ゆっくりと死んでいく世界。
 生きる理由が見当たらない。
 だが、死ぬ理由も見当たらない。少年には何で生きているのかも、何で死ぬのかも。わからなかった。ただ――どうして矢が降るのか、、、、、、、、、、は知っていた。





 5.瞼の裏は闇

 少年の新しい通学路には小さな町工場があった。
 そこでは、一人のおじいさんが、オイル臭い機械を使って金属の部品を作っていた。
 少年は二年前の職場見学で、そのおじいさんの工場を見学したことがある。おじいさんが作っている部品は、車のエンジンの部品の一つらしい。
 その部品はおじいさんのところでしか作れないらしい。
 おじいさんが風邪で仕事を休んでしまったとき、本社の工場が停止してしまったというエピソードがあるくらいだ。
 少年の友達が、
「機械じゃ駄目なんですかー」
 と、質問したところ。
「人の手じゃないと、駄目なのさ」
 と、おじいさんは誇らしげに答えた。
 おじいさんが見せてくれた部品は、銀色の円柱が組み合わさった形をしていて、何が凄いのかよくわからなかった。
 けれど自分の仕事を誇らしげに見せるおじいさんの顔は輝いて見えた。
 ベルトコンベアーと機械のアームで組み立てられている車のイメージしかなかった少年は、おじいさんに素直に感動した。
 帰路の途中、少年はこの工場の前を通る。
 そこでは、いつもおじいさんが仕事をしている。
 いつものように少年は自分の家に帰る。
 この時期は暑いから古ぼけたシャッターはいつも全開だ。おじいさんは、普段どおりに仕事に励んでいる。
 作業台に向かって、真剣な顔で機械に向き合っている。
 金属が削れるキュィィィという音。くるくる、と螺旋状になって飛び散る鉄の屑。
 機械から部品を取り出し、ミクロン単位まで計れる定規を当ててしかめっ面を作るおじいさん。
 いつも通りだ。おじいさんの胸を矢が貫いていなければ、、、、、、、、、、
 少年は呆然と立ち尽くしてしまった。おじいさんをじぃ、と凝視する。目が離せない。
 やがて、おじいさんが少年に気がついた。新しい通学路になってから、目をあわせば挨拶を交わす仲だ。
「よお。今、けえりか?」
 がらがら声だけど、元気のよい矍鑠かくしゃくとしたいつも通りの声だった。
 顔中のしわをくしゃっと歪ませるおじいさんの笑顔。
「……おじいさん」
 少年の目は矢に釘付けだった。
 その眼差しに気がついたおじいさんは、何でもないように言う。
「おう。これか、俺もついに刺さっちまったよ」
 はっははは。豪快な笑い声。おじいさんはよく自分の言葉で笑う。少年は何が面白いのかさっぱりわからなかったが、そのおじいさんの大口を開けた笑いが好きだった。
「おじいさん。どうして仕事しているの?」
 少年は聞いた。
 “天使がくれた時間”の中で仕事をするとは考えられなかったからだ。“天使がくれた時間”をどう過ごすかと言う会話を友人達がしていたのを思い出していた。
 美味しいものをお腹一杯食べる。
 大好きなテレビゲームをする。
 好きな女の子にキスしてもらう。
 少年は友人たちの話を、(子供が考えるのは所詮この程度だな)と斜めに受け取っていた。そう思いながら、少年には何一つ思い浮かんでいなかった。
 “仕事をする”、そんな選択肢はなかった。
「そりゃ、おめぇ。俺が仕事しなきゃ工場が止まっちまうだろうがよ」
「そんなのおじいさんに関係ないよ。だっておじいさんはもう――」
「あんな、坊主ぼんず。かかあも息子たちももういねぇ。俺にゃあ、これしかないんだよ。志半ばで消えちまう奴はごまんといる。最後まで仕事ができるってぇいうのは幸せなことだ」
 少年にはおじいさんが言っていることの半分も理解できない。
「すまねぇな。坊主にはちぃと難しかったか」
 少年は首を振った。
「じゃあ、もうぇんな」
 少年は首を振った。
「見てる」と、一言。
 おじいさんは困ったように顔中の皺を寄せたが、ふと顔が明るくなった。
「わぁった。俺の最後の仕事を見てろ」
 おじいさんは仕事に戻った。
 機械で金属を削る。定規を当てる。また機械で削る。定規で測る。その繰り返し。
 やがて、おじいさんの手が止まった。
「これでいい。これで明日もいつも通り業者が取りに来る」
 おじいさんは部品を箱詰めしたものを工場の入り口に積み上げた。首に巻きつけていたタオルで汗を拭って満足そうな顔をした。
「じゃあな坊主ぼんず
 おじいさんの身体が消えていく。少年は何も言わなかった。別れのときの言葉を少年は知らない。
「……明日から誰が造るんじゃろ。それだけが心配じゃなぁ……」
 最後まで、仕事のことを考えていたその人は心配しならがも清々しい笑顔だった。
 少年は悲しいと思っていなかった。おじいさんが消えた。ただそれだけを感じていた。同時に、ちょっとした罪悪感が少年の心に圧しかかった。
 家に戻るといつものように真冬の部屋に行った。その日あったことを話すのが日課になっていた。少年は真冬に話をするのが好きだった。
真冬は布団の中で死んだように眠っていた。真冬はよく寝ている。身体が弱いから学校の代わりに病院に通っている。入退院を繰り返している。真冬に正確な病名はないらしい。心臓に欠陥があり、現代医学でもどうすることもできないことらしい。
 真冬は縁側の近くの部屋で寝ている。本人が日の当たる場所が好きだからということらしい。
 少年が襖を開けると真冬はゆっくりと目を開いた。すぅと顔に精気がもどったようになるのが特徴だ。
「……あ、悠くん」
 身体を起こし、ゆったりと笑みを描いた。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
 少年はおじいさんのことを話した。話を聞いて真冬は顔を曇らせた。
 ふと、真冬はのそのそと布団から抜け出て、庭に続く障子を開いた。真冬はある方向をじっと眺めていた。それはおじいさんの作業場がある場所だ。その横顔には憧憬どうけいの念がこもっていた。
「どうしたの?」
「羨ましいなって思ってね」
 少年は首を傾げた。何が羨ましいのかよくわからない。そう言うと真冬は真剣な顔で言った。
「おじいさんにとって生きることは仕事をすることだったんだと思う。それを精一杯できて、ゆっくり消えていく。素敵だなって思っちゃったの」
 少年は「そんなもんかな」と言った。真冬は「そんなもんよ」と応えた。少年の心にあった罪悪感が少し薄れた気がした。
 春子叔母さんの作った夕食はピーマンの肉詰めだった。少年は皿の食べ物を綺麗に片付けた。
 ベッドに潜り込み、目を閉じると瞼の裏に両親の姿が浮かんできた。少年の心が撹拌かくはんされていく。この感情を上手く表現できない。こうなると眠ることはできなくなる。一度だけではない。少年は何度も何度もコレを体験している。そして少年は当たり前のことだと思っていた。両親の次に何故かあのおじいさんの姿が浮かんできた。少年はしばらく眠れなかった
 朝起きた。ほとんど眠っていなかったが、いつも通り何も変わっていない。いつも通りの朝。少年はそう思い込むことにした。





 6.きっと忘れない

 休み時間になったとたん。少年の名前が呼ばれた。教室の入り口にいる見慣れない女の子が、キッと睨みながら少年を呼んでいた。他のクラスの人間だろう。
 少年は不思議に思いながも席から立ち上がる。
「早くしなさいよ」
 他クラスの女の子はキツイ口調で言った。少年は少し反感を覚えたが、それ以上の疑問があった。
「えーと、君は?」
「三組の田沼よ。そんなことはいいの。ついてきて」
 三組の田沼と言った女の子は少年の手を掴むと、ずんずん歩き出した。早歩きでは足らず、途中から小走りになった。少年は訳もわからず目の前で揺れるセミロングの女の子のあとに続いた。
「どこに行くの?」
 少年は当惑しながら、女の子の後ろ姿に訊いた。
「裏庭」
 女の子は短く答えた。ますますわからない。見慣れない女の子がどうして自分を裏庭に連れて行くのかまったく予想がつかない。
 体育館の角をあと二つ曲がれば裏庭だ。そこに何が待っているのだろう。一つ目の角を曲がった先に、女の子の集団が待っていた。
 女の子たちに苛められてしまうのだろうか。と少年は思った。すぐにそれは違うとわかった。女の子たちはみんな目を赤く腫らし、すすり泣いているのだ。
「あ、ちさとぉ」
 集団の手前にいた女の子が近づいてくる少年たちに気がついた。ちさと、というのは田沼の名前だろう。
「連れてきたよ。郁美いくみは?」
「まだ……大丈夫……みたい」
 その女の子は鼻を啜りながらようようと言った。ちさとが振り返り、少年を見た。よく見るとちさとも泣いているようだった。
「さ、行ってあげて」
 女の子たちが少年に道をつくるように身を避けた。少年は怪訝けげんそうな表情を貼り付けたまま女の子たちの間を歩き角を曲がった。この先に何が待っているのだろうか。
 裏庭には何度か来たことがあった。大きなシイの木があって、秋になるとシイの実が採れるのだ。ほんのりと甘いシイの実が少年は好きだった。そのシイの木の下に女の子がいた。
 ちさとたちはこの女の子に少年を会わせたかったのだろう。それにしても強引だな、と思った。
 女の子が少年を見て、恥ずかしそうに顔を伏せた。その胸にはくっきりと矢が突き刺さっていた。
 少年は自分の胸に矢が刺さったような鋭い痛みを感じた。肉体ではなく心に。同時に妙な満足感と喜びがあった。矢が刺さっている。そのことが妙に嬉しい。矛盾しているがどちらの感情も本物だった。
「ご、ごめんねっ。きゅ、きゅうに来てもらって」
 女の子は俯いたまま、上目遣いにちらちらと少年の顔を盗み見るようにして言った。
「別に」
 と、少年はいつものように言った。怒っているわけでもなく学校の女の子と話すときの少年はこんな調子だ。女子の場合、男子と違って何を言っていいかわからず、つい短い言葉になってしまうのだ。そのことを知らない女の子は少年が怒っていると勘違いし、
「ごめんね。ごめんね。わたしのわがままに付き合ってもらって、本当にごめんね」
 何度も何度も頭を下げた。
「謝らなくてもいいよ」
 と、少年が言わなかったらずっと頭を下げているような勢いだった。
「それで、僕に何か用?」
 少年は女の子とは別の理由で女の子が正視できなかったので女の子の足元に視線を落としていた。顔ではなく、矢が刺さっている所が見ることができない。
「えっと……その……」
 女の子はごにょごにょと聞き取りづらい言葉を言ってから、覚悟を決めたようにすぅーと息を吸い込んだ。
「ずっと好きでしたっっ!!」
 少年は驚いて顔を上げた。女の子は顔を耳まで赤くして「あわわわ、あうあう」と言葉にならない声を口にしていてた。
「迷惑……だよね」
 女の子はぽつりと言った。少年は返す言葉が見つからず、ただ矢が刺さった女の子を見つめることしか出来なかった。
「わたし、ドジだし、頭良くないし、弱虫だし、だから……こんなになるまで勇気が出なくって。矢が刺さらなかったら、ずっと言えなかったと思う。でも、わたし消えちゃうんだって思ったら、怖くて。怖くて。ここまま悠斗くんに言えずに消えちゃうのはイヤだって。みんな協力してくれて……。あはっ。何言っているんだろうね。わたし」
 女の子は笑顔で泣いてた。瞳から流れる滴は川になって止め処なく頬を濡らしていた。
「ごめんね。本当にごめん。いきなりこんなこと言われても困るよね。わたしもう消えちゃ……ううっ」
 笑顔がくしゃっと崩れた。嗚咽なき涙が、声をともなった涙に変わった。
 少年は何も出来ず、ただ、泣いている女の子の前で立ち尽くしている。
 少年が何かを言ったのは「ひっく、ひっく」としゃくりあげながら、なんとか涙を収めようとしているときだった。
「名前」
「……え?」
「君の名前、僕は知らない」
 女の子はきょとんとしてから笑った。
「あははっ。わたし、本当にバカだね」
 女の子の存在感が薄くなった気がした。
「わたしの名前は、杉野郁美すぎのいくみ
 彼女は消え始めていた。
「憶えてくれると……嬉しいな」
 それが最後の言葉になった。少年は頷き、杉野郁美は消えた。
 矢が刺さった女の子。最後の最後に最高の笑みを残した女の子。少年の心にあった罪悪感がさらに重みを増した。
 シイの木の下に、制服だけが残っていた。




 7.増える瞼の裏の人

 少年が郁美が消えたことを告げると、集まっていた女の子たちはどん底に沈んだような顔になった。
 後でちさとから訊いたことだが、あの木の下で愛の告白をすると上手くいくというジンクスがあるらしい。少年は一連の出来事について納得した。
 少年は杉野郁美を看取った人間として、葬式に参列した。郁美の母親は娘の死に悲しみを隠し切れず、ハンカチで口元を覆っていた。少年は一言「すみませんでした」と言った。
 郁美の母は言葉の意図が掴めない、といった顔をしたが自分の中で上手く処理したようだ。「……ありがとね」と少年に言った。
 今度は少年が言葉の意味がわからないという顔をした。ありがとう、といわれる筋合いはない。それどころか詰られる立場にいるのに。
 矢が降るのは、自分のせい、、、、、だというのに。
 結局、少年はそのことが言えずに帰宅した。帰宅すると珍しいことに真冬が庭の雑草を抜いていた。悠斗の姿を見とめると顔を上げ、日差しを避けるための白い帽子の下で汗を拭った。
「お帰りなさい」
「……ただいま。何してるの?」
「お庭にアサガオを植えようと思って」
「起きて大丈夫なの?」
 真冬はこくんと頷いた。
「うん。最近調子いいのよ、わたし」
 少年は「ふぅん」と相槌を打った。そういえば最近食事の量が多くなった、と思い出してた。
「手伝うよ」
 少年は部屋に戻って、正装からTシャツとズボンに着替えた。庭に戻って、真冬を縁側に座らせて休ませた。「大丈夫よ」と強がる真冬を適当に言いくるめた。
 ぶちぶちと雑草を抜いて、土を払う。抜いた雑草は乾かすため、ひっくり返しておいた。
「ねぇ。悠くん……何かあった?」
 ぼんやりと少年の作業を眺めていた真冬が言った。
「同級生の葬式に行ってきた」
「そっか……矢?」
 少年は首肯し、それから杉野郁美に告白された話をした。
「ずるいね。その女の子」
 それが最初の真冬が最初に言った感想だった。
「ずるいのかな」
「ずるいよ。だって、悠くんの答えを聞かずに消えちゃったんでしょう。悠くんの心の中にずっといるんだよ」
 確かにあの子のことはそう簡単に薄れそうもない。少年はそれでいいと思っている。自分が彼女を殺したようなものだから、そのことは当然だと思っている。しかし、少年はそのことを真冬には言わなかった。
 浅く掘った穴に真冬がアサガオの種を落とした。かいがいしく土を被せ、作業は終わった。
「アサガオ、早く咲くといいね」
「そうね」
 真冬はどこか淋しそうな顔をしていた。
 その晩、少年は例の感情に襲われた。両親、おじいさん、そして今日の女の子が次々に瞼の裏に現れた。少年はただじっとどうにもならない心の渦を抱えて夜を過ごした。





 0.ことのはじまり

 初めにあったのは、一本の矢だった。イメージとしてはあまりに鮮明に少年の頭の中にあった。しかも、それは矢という言葉を知る前からあった。絵本で見てようやく頭の中にあるソレ、、が“矢”という名前を持っていることを知ったくらいだった。いつから頭の中にそのイメージがあったのだろうか。たぶん生まれる前からあったのでは、と少年は予想している。
 少年の生まれた家は至極普通だった。普通という言葉の意味はとても広いが、この場合は特殊ではないといった意味である。普通の家庭に生まれた少年は、“普通”でないことを自覚していた。
 例えば幼稚園。自由にお絵かきする時間があった。少年の絵を覗き込んだ保育士の顔が引きつった。少年は黒いクレヨンを手にとってガシガシと白い部分を塗りつぶしていた。
 保育士が言った。
「これ、何の絵かな?」
「人が死んでいる絵」
 少年は茶色のクレヨンを手にとって、棒人間の中心に向かって線を書きなぐる。
「そ、それは?」
「矢。矢が刺さったところ」
 保育士は少年に「家と家族」の絵を書こうね、と言って紙を取り替えた。少年は残念に思った。まだ完成していないのに、と。
 少年は“矢が人を貫く”ということに強い憧れを持っていた。どうしてそんなことが好きなのかわからないし、疑問に思ってことはない。少年の頭の中に初めからインプットされていて、そう思うのが呼吸をするように当たり前のなのだ。呼吸をすることに疑問を持つ人間はほとんどいない。
 少年はかなり早い段階から、そういう考えを持つ人間は“普通”ではないことを知っていた。
 同じクラスの人間の会話が面白くない。何故、そんなことで笑えるかわからない。他人が興味があることに興味が示せない。少年は同時に、自分がそういう考えを持っていることを知られてはいけない、とも思っていた。異端を自覚するものは異端であることを隠そうとする。それは防衛本能に近いものだった。
 少年はそうやって成長していった。“矢が人を貫く”ことに対する欲求は高まるばかりだった。頭の中にある矢のイメージはますます強くなっていく。
 その日は唐突に訪れる。
 少年は街の中で一番高いところにいた。市民の税金をふんだんにつぎ込んだ公共施設の屋上だった。フェンス越しに下を見ると、米粒ほどの大きさの人間が蟻のように動いていた。
 少年は五感以外の感覚で頭の中の矢を取った。逆の手には弓。これも目には見えない。けれど確実に存在する。少年は、矢をつがい。弦を引いた。誰に教わったわけではない。身体は矢を射ることを知っていた。
 弓が引き絞られ、今か今かと放たれる瞬間を待ち望んでいる。鏃が鈍く光を反射した。
 目標は――
 下にいる人々に向けていたのだが直前で、これはいけないことだと理性が叫んだ。結果、少年は空に向けて射った。
 その日から、世界では矢が降るようになった。
 だから少年は信じて疑わない。今、世界中で降り注いでいる矢は自分の頭の中にあったあの矢なんだと。少年が頭の中の矢を使ったのはそのときの一度きりだった。





 8.おばさんのカレーはとてもおいしかった

 夏休みに入って、アサガオが芽吹き、地面に刺した棒に蔓が巻きつき始めた頃、春子おばさんが死んだ。正確に言うのなら、矢に貫かれて消えた。
 矢は、はやり突然現れた。初めから刺さっていたように春子おばさんの胸に刺さっていた。手を伸ばした真冬がとても驚いた顔をしていた。真冬が手を伸ばしたのは矢が刺さる前のように見えたが、その少年の小さな疑問は衝撃に飲み込まれ、消えてしまった。
 「ごめんなさいね」春子おばさんは最後に夕食を作り、そう言って消えた。最後の料理はカレーだった。少年は今までで一番おいしい夕食だと思った。
 これで一族の中でこの世に残っているのは真冬と少年だけになった。近所の人たちは「矢に魅入られている」とか「呪われている」などと噂した。
 ひっそりと葬式が行われた。その葬式を手伝ってくれた祖父母の友人夫婦が少年たちに言った。佐藤というありふれた苗字の人だった。
「私たちと一緒に暮らさないか」
 佐藤夫婦は祖父たちと家族ぐるみの付き合いをしていた友人で、少年も一回だけ佐藤夫妻のマンションを訪れたことがあった。子供を亡くして二人で淋しく暮らしているらしい。マンションは息子が買ってくれたものらしい。
 少年と真冬を養子にしてもいいとまで言ってくれた。実は春子おばさんが消える前にもそういう話はあったらしい。向こうは受け入れる準備は整っているようだ。
 真冬は「数日……考えさせてください」と言った。先方はその言葉を受け入れた。
 式の間、決して泣かなかった真冬は少年と二人きりになってから堰を切ったように泣き出した。子供のように泣いた。
「……春子ねえさん。どうして……どうして……」
「僕のせいだよ」
「え?」
 見ていられなかった少年はとうとう矢のことを話すことにした。真冬の感情が裡に向かうのではなく、少年を攻めることに向かった方がよいと考えたからだ。真冬は信じなかった。少年はどうすれば自分の言っていることが本当かどうか証明できるか考えた。いつのまにか真冬は落ち着いていた。
 一つだけ思いついたが実行するのは止めておいた。頭の中にある矢を射れば、真冬も信じるだろう。だが、誰に向けて射ればいいのだろうか。外したのにも関わらず、世界には矢が降るようになった。
「それに……」
 目元を人差し指の付け根で擦ってから真冬は続ける。瞳の滴は指に移り、広がり、消えていった。
「もし悠くんのせいで矢が降るようになったからって、わたしはどうもしないよ」
 少年はどうして、と聞いた。
「矢が降っても降らなくても。人は死ぬもの」
「ならどうして泣いたの?」
「悲しいときは素直に泣いた方がいいのよ。悠くん」
 真冬は諭すように言った。少年は悲しくないから泣けない。と言った。
「涙を流すとね。涙と共に色々なことが流れていくの。その人と過ごした思い出とか。今、悲しい感情とか。そうやって楽になっていく。涙は死んだ人のために流れるんじゃなくて、自分のために流れるの。そうやって色々な感情を流していかないといっぱいになってしまうの」
「ふぅん」と少年は納得のいかない顔で言った。
 さらに何かを言おうとした真冬は急に胸を押さえる。膝が崩れ立っていられない様子で少年にしがみ付いた。
「真冬!?」
「っ……大丈夫、だから、水を……」
 真冬はポケットに震える手を伸ばした。少年は急いで台所に向かいコップに水を注ぐとすぐに戻ってきた。真冬は薬を数錠こぼしながらもなんとか口に収め、少年からコップを受け取り、飲み干した。
 崩れ落ちる真冬のあまりに軽い身体を少年は支えた。手首を取ると少年の手の一周と一間接。力を込めれば小枝のように折れてしまいそうな腕だった。
 落ち着いてきた真冬は苦笑した。
「やっぱりショックだったから……かな」
 真冬は少年の肩を借りて寝床に戻った。こういった発作は何度もあることなので慣れたものだった。
 布団の中で真冬はしゅんとなっていた。
「ねぇ悠くん……佐藤さんたちのこと好き?」
 少年はよくわからない、と言った。
「そう……だよね。わたし誰かの重荷になるのは嫌なんだけど……。悠くんにも迷惑かけてるよね」
 そんなことないよ、と少年は告げた。
「ありがと……優しいね」
 真冬は微笑んだ。
「本当はこの家で二人で暮らして生きたいと思ったけど、わたしがこれじゃ駄目ね。あなただけでも佐藤さんのところに行く?」
「真冬はどうするの?」
 真冬は少年から視線を外し、天井を眺めた。天井というより家全体を視ているようだった。
「わたしはこの家が好きだから。ここにいるわ」
 少年は困った顔をした。
「それ本気で言ってる?」
「半分はそうよ。でも、無理よね」
「……多分」
「明日、佐藤さんに話してみる」
 少年は枕元から立ち上がった。
「おやすみなさい」襖を開いた少年の背中に真冬が言った。少年は顔だけを振り向いて「おやすみ」と言った。
 その夜、少年は瞼の裏に両親を見た。続いてあのおじいさん。そして郁美という名前の女の子。最後に春子おばさん。少年は言葉に言い表すことのできない感覚の嵐に耐えた。一睡もできずに夜が明けた。





 9.矢が視える人

 佐藤さんに養子になる旨を伝えたら、不思議な方向に話が転がった。どうやら佐藤夫妻はマンションよりも、以前自分たちが住んでいた家に近い匂いがする少年たちの家を気に入ったようだった。もともと空き部屋の多い家だったので、佐藤夫妻が住むのは簡単だった。こうして意外とあさっさりと真冬の杞憂きゆうは無くなった。
「アサガオ、咲いたね」
「そうだね」
 少年は麦わら帽子の下で笑みを描いた。アサガオに呼応するように真冬が元気になったように感じられたからだ。
 縁側に腰掛けて少年と真冬は庭を眺めていた。支え棒に巻きついたアサガオたちは絢爛と妍を競っていた。セミが生命の限り鳴いていた。長年土の中で成長し、ようやく外に出れた喜びを歌い上げるように。
 真冬はぱたぱたとうちわを扇いでいる。この場所は風の通り道なのか、とても涼しい。
「あ」と真冬が空を見やった。少年も真冬の視線を追ったが、その方向には入道雲があるだけだった。
「前、悠くんは矢が頭の中にあるっていったよね。それが今、降り注いでいるって」
 少年は頷いた。
「わたしは矢が視えるの」
 少年は小首を傾げた。人間に刺さった矢は誰にでも見えるはずだ。
「空から降ってくる矢が見えるのよ。さっきもあっちの方向に落ちていった」
「そっか。だから……春子おばさんのときも視えたんだね」
 真冬は頷いた。
「わたしの手を通り抜けていっちゃった……」
 少年は空を見上げた。どこにも矢は見えない。パレットに出したばかりのスカイブルーと新しいシーツのようなホワイト。色が鮮やか過ぎて嘘くさい。空は残酷なまでに綺麗だった。
 佐藤叔母さんが麦茶を出してくれた。少年はそれを二杯飲んだ。





 10.辛いね

 お盆過ぎた頃に真冬は大きな発作を起こした。発見したのは少年だった。苦しげに息を吐く真冬は、「大丈夫……」と言いながら倒れた。本当に辛そうだった。真冬が辛いところを見るのはとても嫌だった。
「いつものことだからね。あーあ、今年の夏は大丈夫だと思ったのに」
 と、口を尖らせた真冬は病院のベッドの上で点滴につながれていた。空元気なのは明らかだった。
 もともと白い肌がさらに白く透き通り、まるで人形のようだった。
 真冬の発作に佐藤夫妻はとても狼狽し心配した。いつもは穏やかな佐藤老人だったが、真冬を運ぶ救急隊にすがりつくように「大丈夫なんですか!」と声を荒げていた。婦人は青ざめた顔で真冬を見つめていた。そんな二人を見て、少年は少し嬉しくなった。
 数日で退院した真冬は、夏の最初のような元気を失っていた。一日の大半を布団の上で過ごしている。病院より家の方が落ち着つくらしい。そのほうが治療になるそうだ。三日おきに担当医が検診に訪れた。
 庭のアサガオはいつのまにかしぼんでいた。
 夜、少年は真冬の部屋にそっと入った。真冬は安らかに眠っている。死に魅入られている人間は凄絶な美しさを持ってる。真冬はソレだった。白く透き通った肌は作り物めいていて生きている感じがしない。
 少年は頭の中の矢を強くイメージした。弓の感触が手に戻ってきた。あのときの感覚だ。引き絞る。これで真冬も消える。安らかに死んでいく。これで瞼の裏の人間が増える。
 真冬は矢で消えていったおじいさんを羨ましいと言った。素敵だと言った。これ以上、真冬が苦しんでいる様を見たくなかった。
 だから――放った。
 何も起きない。真冬に矢は刺さらない。
「どうして……?」
 少年は手のひらを見た。矢を放った感触はそこに残っている。だというのに、何も起こっていない。
 すぅ、と真冬の瞼が開いた。少年の気配に気がついた真冬は「悠くん?」と聞いた。
「どうして……?」
 少年はまた繰り返した。
 身体を起こしてしばらく少年の様子をうかがっていた真冬は「そっか、やっちゃったんだね」と言った。
 少年は顔を上げて「どうして……?」と今度は真冬に問いかけるように言った。
「悠くんがわたしを射ろうとしていたのはなんとなくわかっていたよ。わたしが退院してから狩人みたいなギラギラした目をしてたからね。ほら、わたしの言った通りできなかったでしょう?」
 少年は頷いた。
「悠くんは、ちょっと矢を感知できる力があっただけで、矢自体には何の関係もないと思う。わたしもそうだから」
 真冬は一旦、言葉を切ってからゆっくり言った。
「矢が降るのは悠くんのせいじゃない。悠くんは、ただ優しいだけの普通の男の子だよ」
 少年は強く首を振った。「そんなことない」と。
「僕は周りの人が死んでも涙さえ流さない冷血人間だ。矢を持って生まれてきた危険な人間なんだ。真冬のことだってさっき……」
 いつもの少年の顔からは想像もできない激しい心情の吐露だった。
「そんなことない。悠くんはすごく優しくて記憶力がいい子」
 真冬は少年の頭をゆっくり撫でた。
「そんなこと……ない」
 少年は繰り返した。
「ううん。わたし、知っているよ。悠くんが夜ずっと泣いていることを」
「え?」
「涙を流すばかりが泣くことじゃないとわたしは思う。じっと消えてしまった人のことを忘れないように、忘れないようにって思い出していることは、きっと簡単に涙を流すことよりその人を想っているんだと思う。自分のためじゃなくて、その人のために色々なことを思い出して、心に刻むって言うことはすごく大変なはず。悠くんはそうやって“泣いて”いたじゃない」
 その行為は“泣く”というのだろうか。わからない。
「罪悪感があったんだよね。自分が矢を射ったばかりにって」
 少年は頷く。
「だから泣けなかった。涙を流す資格なんてないと思っていたのかな?」
 少年は頷く。
「辛かった?」
 少年は頷く。
「ごめんね。気がついていたのに今まで何も出来なくて」
 少年は首を横に振った。真冬は少年を自分の胸にうずめた。
「泣いていいんだよ」
 少年は首を振った。
「僕は、楽になりたくなんかない」
「……辛いね」
 少年は頷いた。





 11.変わらない世界。矢は降る

 晩夏の涼しい風が縁側を通り過ぎる。久しぶりに外を歩いた真冬は縁側に腰掛けていた。隣には少年。
「アサガオ、来年も咲くといいね」
 少年は頷いた。
 真冬の手には黒い小さなアサガオの種があった。真冬はそれを大事そうに和紙に包んだ。
 二人して空を眺めた。黄昏たそがれ時。昼と夜の境界線。
「ねぇ。どうして矢は降るんだと思う?」
 真冬が聞いた。
 ひぐらしが鳴き始めた。カナカナカナカナ……と、夏を惜しむように美しく鳴いていた。
「わからない」
 少年は言った。
「でも……どんな理由でも、矢は降るんだから」
「……そうだね」
 真冬は空を見上げた。
 今日もどこかで矢が降り、誰かが消えているのだろう。





<了>







2005/8/3 初版

・あとがき

 不思議な話でした。何が不思議かと言うと何も考えずに書き始めいつのまにか書き終えてしまったという作品だからです。自分は、結構話しの筋を決めてから書き始める人間なんのですが、これは“矢が降る”というイメージが浮かんだ瞬間から書き始め、あれよあれよというまに書きあがってしまいました。短編の中で一番長い話になってしまいました。
 ついでに言うとヘンテコな話になっていまいまいした。なんでしょう、この話は。この話の意図がよくわかりません。書いたのは自分なので、自分のことが理解できません。ついにここまで頭がポンコツになってしまったようです。
 今、読み返してみると「きっとこのダメ作者は、境界線上の曖昧な感じを書きたかったのだろう。見事に変になってるけど」と思います。





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