1.
「衒学的って言葉、知っている?」
彼女の言葉は前後の脈絡なく唐突に言ってくる場合がある。今回がそれだ。
我が文学部の部室は今日も大盛況、部員の半分を収容し、静かな空間を作り上げていた。ちなみに今、この部屋にいるのは僕と彼女の二人っきり。でもロマンティックな雰囲気になるはずがない。なにせ僕と彼女なのだから。
「ゲンガク的?」
僕は彼女を喜ばせると分かっていても、聞き返さないわけにはいかなかった。
その不思議な言葉のニュアンスに囚われてしまったのだ。
彼女は僕の予想通り、ニヤリと意地の悪い笑みを作った。もっと可愛らしく笑えないものなのだろうかと常々思う。
「衒学的っていうのは、ペダンチックとも言う」
言い方を変えられても分かるはずがない。彼女は意地悪だ。僕が朝、目覚まし時計を止め「あと五分」と、のたまうくらい当たり前で、今更なことだ。
「あ、そ」
僕は自分の可能な限りそっけなく言って、文庫本に視線を落とした。
「本当は知りたくてたまらないなー、僕の知的好奇心が疼いてしかたないって顔している」
図星。
僕がちらりと顔を上げると、彼女は「くっくっく」と笑い声を零した。
さすがに、この笑い声はないだろう。彼女の将来が非常に心配だ。まあ、これは僕が心配しても詮のないことだけど。
「よろしい! 無知な君に、わたしくが教えてしんぜよう」
えっへんと、彼女は胸を逸らした。
「ワー、タノシミ」
「心から言ってないだろ。おぬし、まぁ、よいよい。この媼の話を聞いておくれ」
ああ、こいつ本当に面白い奴だな。君の精神構造がどうなっているか僕は非常に気になるところだ。
彼女はこほん、と咳払いの真似をすると滑らかに話し始めた。
「衒学的というのは学問があることをひけらかす様のことを言う」
ガツンと、脳みそを殴られた気がした。破壊力はメガトン級。大地を割る威力だ。凶器は言葉という名前の打擲道具。
学問があることをひけらかすさま。それは僕のことではないだろうか。
「ふーん。まさしく、今の君を指している言葉だ」
僕は平静を取り繕い、いつものように軽口を言った。
「そう。その通り!」
彼女は指を一本立てて言う。
「勉強になりました。どうもありがとう」
小さく頭を下げて、ついでに文庫本に視線を落とした。
「こらこら、少年。まだ話は終わっていなんだなーこれが」
「今のがオチじゃないの?」
「ノンノン」
立てた人差し指を左右に振って、彼女は得意げに話し始めた。
「あたしが言いたいのはね。あんたとあたしの会話は、このゲンガクに彩られていると思うのよ。それも中途半端に」
「否定はしないよ。僕たちは、いつも学者っぽい理論を言い合っているけど、それが真似事だって分かっている。所詮高校生、何にも分かっていないけど、分かったフリがしたい。頭がいいと思い込みたい。だから無理に背伸びして学術書から引っ張り出してきた単語を使おうとする」
饒舌に語る僕を、眉を顰めた彼女がじっと見ていた。アーモンド形をした彼女の大きな瞳は、覗き込んでいるとそのまま吸い込まれてしまいそうな静謐さを湛えていた。彼女が僕の深いところに踏み込んでくるとき、いつもこの顔をしている。
「アイタタ、痛烈な自己批判。言っててイタクない?」
「実は激痛。全治三ヶ月クラス。僕は心に酷い傷を負った。でも、今の言葉は君への手向けだよ。自分も痛いが相手に更なる打撃を与える諸刃の刃。自分も痛いが相手に三倍のダメージを与えるこめかみテンプルブチ抜きクロスカウンター。」
「実はあたしも凄く痛かった。心にグサッときたね」
左胸を抑えて仰け反る。
「痛み分けってことで」
僕は再び、文庫本に視線を落とした。
僕は卑怯だ。彼女の言葉を奪い取り、自分の傷を小さくした。
自虐? 結構じゃないか。他人に傷つけられるくらいなら。自分で自分を傷をつけたほうがマシだ。
会話が途切れた。彼女が話の接ぎ穂を探している。なんとなくそれが分かる。
この会話が途切れた沈黙を“天使が通り過ぎた”と言うらしい。ゲンガク的だ。僕の思考はいつもペタンチックに彩られている。 他者より知識があることをひけらかそうとしている。思考がそうなのだから、会話がゲンガク的にならないはずがない。僕に友人が少ない理由がなんとなく理解できたよ。理解したくなかったけど。
ちらりと彼女の顔を覗き込む。彼女は思惟の糸を紡いでいるように指を忙しなく動かしていた。時々、僕の顔を窺うように眇める。言いたいことがあるけど口に出てこない。そんなときの仕草だ。
「何? 僕に聞きたいことがあるんでしょう」
僕は顔を上げた。
「ふぇっ? ああ、そうそう。よくわかったね」
「分かりやすいから。それで?」
「ずっと聞きたかったんだけど……」
彼女の双眸が僕の下半身に集まる。ああ、コレ関係ね。僕は彼女がする質問のいくつかを頭の中でシミュレートした。
「スカートの下って何、穿いているの?」
シミュレートNo4。僕は予め用意していた答えを言う。
「トランクス」
「へ? 女物のパンツじゃないの?」
彼女は素っ頓狂な声を上げて驚いた。
「それじゃあ、僕が変態みたいじゃないか」
「え? 橘くんって変態じゃなかったの?」
――僕のどこが変態なんだ!! という言葉が口腔の奥で生まれ、口に出る前に己の意思によって消滅した。
紺色のセーラーカラーに臙脂のタイ、プリーツスカートの三点装備品を身につけた男子生徒は、確かに変態のカテゴリーに含まれても仕方ないだろう。
「……否定はしない」
「あ。ごめんね。怒った?」
「別に」
「ううん。大丈夫、凄く似合っている、お世辞じゃなくて可愛い」
褒められても全然嬉しくない。
「ありがとう。とっても嬉しいよ」
「心の底から思ってないでしょう」
おっと、彼女はいつの間にか僕専用の読心術を身につけてたようだ。僕も彼女専用の読心術もどきを会得しているので、お相子というわけだ。
「まあね」
今日のところは引き分け。別に彼女と勝負をしているわけじゃないけどドローはドロー。負けると悔しいからね。勝敗の基準はよくわからないけど。まあ、気分的な問題だ。
「どうしてセーラー服なんて着ているの?」
彼女は唐突に言った。この質問、何回目だ?
「趣味だよ」
僕は彼女の質問と同じ回数だけ繰り返してきた回答を言った。
僕がセーラー服を着る理由は別に大したことじゃない。これは儀式だから。
2.
最初は恐ろしいほどの反応があったが、人間は慣れる生き物だ。教室という箱庭に、異物が一つ混じった。それくらいの認識しかないだろう。異物は排除される運命にある。
中世キリスト教における異端者然り、アヒルの子供の中に紛れ込んだ白鳥の子共然り。
異物への反応は大きく分けて二通りあると思う。弾圧を加えるか加えないか。学校生活における前者で、もっとも顕著な事例は「イジメ」だろう。後者は空気のように扱う無視だ。
僕は後者に属する異物だった。クラスの皆は僕を空気のように扱ってくれる。一人の例外を除いて。
教室の方々は積極的な関与がないだけで、プリントの回収などの雑務はちゃんと行われている。露骨な嫌がらせとかもない。実に気楽と言える。体育教師が思い出したように注意するくらいで、僕の女装生活に障害はほとんどなかった。
退屈な数学の時間が終わり、昼休みが到来する。クラスの一部が、購買に向けて疾走に移っていた。我がクラスは購買に最も遠く、パン争奪戦においてかなりのハンデを強いられていた。彼らはそれでも尚、カニクリームコロッケパンを求める猛者たちだ。
「よー、ここいい?」
彼女はいつもの場所に、僕の返事を待たず座った。
「はい、ここで問題です」
自分のお弁当箱を広げながら彼女は言った。
「降参です。僕には分かりませんし、理解できませんし、答えが導き出せません」
「まだ問題言ってない」
ビシッと裏拳の突っ込み。タイミングはなかなかよい。
「またゲンガク的なヤツ?」
「そ、衒学的なヤツ。では、数学の問題です。東京から東に2000km行って、そこから右に直角に曲がり2000km。さらにそこでも右に90℃ターンして2000km、最後に同じように直角カーブを右に曲がって2000km。さて、どこに着くでしょうか?」
彼女は自信ありげに腕を組み、僕の答えを待つ。僕はその自信を粉々に粉砕する。
「東京じゃないことは確かだね」
「え?」
彼女の表情が崩れる。
「ちゃんと考えた? もっかい、言おうか?」
「ちゃんと考えたよ。東京って言わせるための引っ掛け問題だろ。それ」
「そうなんだけど……なら、どうして東京じゃないってわかった? 理由を言ってみて」
「地球は丸いから」
彼女の自信が木っ端微塵になった。表情が告げている。
「平面幾何で考えれば今の航路は正方形になるだろうけど、地球上――曲平面で考えると正方形にはならない。地球が丸くなっている分、距離が変わる」
「博識ですなぁ。どこでそんな知識を仕入れているやら」
婆さんモードで彼女が言う。
「非ユークリット幾何学の本を読んだだけさ」
「衒学的ですなぁ」
ゲンガク的だ。僕もそう思う。
その後、一緒に昼食を食べた。ゲンガク的な話を二三交わす。
放課後、部室で時間を潰す。僕は本を読み、彼女は窓の外を眺めたり、僕に話しかけてきたりする。彼女が本を読んでいるところを見たことはない。
衒学的。幻惑的。ゲンガク。ゲンワク。似ている言葉だ。音だけでなく、人を煙に巻くようなニュアンスが酷似している。
難しい言葉というのは意味がよく分からない。知っていると頭がよくなった気がする。だから僕は本を読んで学ぶ。でも、本質は何も分かっていない。
僕はきっと、自分自身を煙に巻いているのだろう。
3.
僕は昇降口で彼女と別れ、帰途に着く。実は彼女とは同じ方向なのだが、一緒に帰ることはない。
自宅は徒歩十五分の位置にある。けれど僕は二十分から三十分くらい歩く。色々な道を通るのだ。約一年前からそうするようになっていた。
今日はこっちの道から行こう。ノリと気分と勢いが僕を導いた。
この道は住宅地を抜ける道で、車の通りが少ない。この道の問題点は二つ。
帰路の中でもっとも時間がかかること。
もう一つが、僕に吠えかかってくる犬たちだ。奴らは飼い犬ご近所ネットワークでも作っているのか、一匹でも吠え出すと周りに連鎖反応が起き、大合唱に変わる。吠え声のハーモニーは不協和音以外の何者でもない。
程なくして響き渡る吠え声の嵐に、僕は真剣に考えた。
――僕はどうしてこの道を選択したのだろう。と。
住宅地の狭い道から二車線の通りに抜ける場所。僕は道路脇に置かれた花束に釘付けになった。
ひしゃげたガードレール。タイヤ痕が残ったアスファルト。散らばったフロントガラスの破片。
そして――血痕。
警察が片付けたのだろうが、事故の爪痕が生々しく残っている。
同じだ。
僕が避けている道と同じだ。
姉が死んだときと同じだ。人を過去形にしてしまう現象。
死。
僕はどうしてこの道を選択してしまったのだろう。最悪だ。本当に最悪の気分だ。
僕は駆け足で立ち去った。逃げたといってもいい。
僕は姉の死から、逃げていた。
4.
僕には双子の姉がいた。
僕らは驚くほど似ていた。同じ工場の同じ生産ラインによって製造されたのだから当たり前かもしれない。
僕は姉が大好きだったし、姉も僕が大好きだったと思う。いや、好き嫌いの範疇を超えた当たり前の存在だった。何をするのも二人一緒だった。
その姉が交通事故で死んだ。相手ドライバーはお酒を大量に飲んでいた。姉に非はない。あってたまるか!
僕は半身を失った。それから僕は姉の制服を着て登校することにした。僕が順調な女装生活を歩んでいる理由にはこれがあるのだろう。
僕の友人も、姉の友人も、先生たちも、僕に同情の眼差しを向けた。僕は平然としていた。
次第に皆は離れていった。腫れ物を扱うような態度は疲れるのだろう。だったら、触れなければいい。実に合理的な考えだ。彼女だけ、そう彼女だけは僕に変わらず接してくれた。
僕はセーラー服を着た。その行為にどんな意味があるのか。
僕は儀式だと思っている。どんな儀式かは僕にはわからない。何故そうするのかわからない。それは僕が知りたいくらいだ。僕は自分の行動が知りたくて心理学の本を読み漁った。
曰く――同一に成ろうとする心の働き。
曰く――対象の死を信じられない心を表すメタファー。
メタファーって何だ?
隠喩?
隠喩って何だ?
ペタンチックだ。分からない。言葉にはぐらかされている。煙に巻かれたような気がする。
僕の心は何だ?
意味不明な言葉で説明しないでくれ! 僕に分かるように言ってくれ!
僕は何も分かっちゃいない。中途半端なペタンチック。
5.
以前、姉は言った。
「わたし達はよく似ているけど、別人なのよ」
僕は当たり前だ、と言った。
現在、僕はこう思う。
どうして別人だったのだろう。どうして二人になってしまったのだろう。
心も、身体も、魂も、全て溶け合って一つになれたらどんなに良いことか。
姉さん。姉さん。どうして僕の前からいなくなってしまったの? 淋しいよ。
姉さんの顔。……あれ? あれれ? あれれれ?
わからない。思い出せない。どんな目をしてた? どんな口をしていた? どんな輪郭だった?
わからない、わからない、わからないよ。
不安。とても心が不安定になっている。姉さんの顔を思い出すことだけに全神経を集中させる。
思い出せ。思い出せ。思いだせェ。
いてもたってもいられなくなり、自分の部屋から飛び出す。
居間――父親が驚いた顔をしている。いない。
台所――母親が料理をしていた。いない。
和室――いない。
両親の寝室――いない。
クローゼットの中――いない。
自分の部屋――いない。
あれ? ちょっと待てよ。あれれれ? おかしいな。あと探していないところは洗面所、お風呂、トイレだけのはず。姉さんの部屋は? 僕の部屋だけあって姉さんの部屋だけないっていうのはおかしい。
あ、そうか二人一緒の部屋にいたんだっけ。なーんだ。そうだ。そうだった。まったくどうかしている。そんなことも忘れていたなんて。
僕は安心した気持ちで洗面所に入った。姉さんがいた。鏡の中に姉さんがいた。そうだよ。この顔だよ。そう、これこれ。ああ、よかった。僕は姉さんに手を伸ばす。姉さんも僕の方に向かって手を伸ばしてきた。鏡を挟んで二人の手が重なる。冷たい。鏡が僕たちを邪魔している。
ああ、うっとおしい。邪魔だなコイツ。僕たちの障害を取り除く。拳を思い切り打ち付けた。
がしゃーん。あれ? 姉さんがいなくなってしまった。あれれ? おかしいな。拳から血がびゅーびゅー噴出している。赤くて綺麗だな。びゅーびゅー。あ、洗面台の中に小さな姉さんがいっぱいいた。なーんだ、そんなところにいたんだ。僕は手を伸ばし、姉さんを掴んだ。血の量が増えた。姉さんをどんどん赤く染めていく。
「どうした!」
父親が血相を変えて洗面所に駆けつけてきた。母親の顔もすぐに見えた。二人は慌てている。「大丈夫か」「血があんなにいっぱい」「止血を」「いや、救急車だ」
6.
僕は包帯が巻かれた手を庇うように椅子に座った。目の前には白衣を着た男がいる。年齢は三十前後。黒々とした髪を整髪料でオールバックにしている。縁がない眼鏡をかけている。頬がこけ、神経質そうな目をした痩せた医者だった。医者が病的な風貌をしているのはいかがと思う。医者ならもっと健康に気を使って欲しいものだ。
「こんにちは」
医者が風貌に似合わない溌剌とした声を出した。
「こんにちは」
僕はおざなり程度に挨拶した。
「先生は精神科の医者ですよね」
「ああ、そうだが……」
「――ということはつまり、僕は精神が病んでいる可能性があると思われているわけですね」
「いや……」
医者は言い淀み、必死に適切な言葉を探しているようだった。しかし見つからなかったらしい。
「君の言っているとおりだよ。でも安心して欲しい。身体が病気にかかるように、心も病気にかかるんだ。僕は心の診察をするだけだよ。身体の調子が悪いから診てもらおう、とするのと同じさ」
医者は患者を安心させるような笑顔を浮かべた。
「同じことを両親にも言ったんですか? あの人たちは世間体を気にしそうですからね」
医者は何も言わず苦笑した。それは肯定を意味していると思った。
「まず君の名前から聞こうか」
「カルテに書いてありませんか?」
「そんなに構えないでくれよ。簡単なコミュニケーションだよ」
僕はため息をつきながら名前を言った。医者は自分の名前を告げた。記憶の片隅にも置く価値がないと思ったので、聞いた傍から忘れていった。
それから医者は学校のことを聞いてきた。僕は適当に答えた。
医者は僕の緊張と警戒がほぐれてきたと判断したのか「ところで」と言った後に、核心に触れてきた。
「君は学校に行っているとき、少し珍しい格好をしているらしいね」
「制服です。社会人が高校の制服を着ていたら珍しいかもしれませんが、学生が制服を着るのはあたりまえのことです」
「女の子の制服でも?」
眼鏡の奥にある視線が僕の様々な所を観察しているのがわかった。自然なコミュニケーションから相手の症状を診察するのが精神科医ではなかったのか? こんなにあからさまにジロジロ見ては、この質問が試金石だと判ってしまうじゃないか。
「校則違反はしていません」
「なるほどね。どうして男の子の君が女の子の制服を着るのか聞いていいかい?」
「ファッションですよ。僕たち学生は限られた衣類を着て自分の個性を出さなければならないんです。セーラー服を着ているのは僕の個性です。それ以上でもそれ以下でもありません」
「なるほど。限られた衣類の中で個性を出さなきゃいけないか。わかるよ。僕の学生時代にも学ランを改造して着たいたやつがいたなぁ。でもね、異性の制服を着るっていう行為は他人から見ると個性的を通り過ぎて奇異に見えるものなんだよ」
同じようなことは周りから何度も聞かされたよ。
「ええ。承知しています」
わかってやっているんだよ。いいだろ。誰にも迷惑かけていないんだから。そのくらいは自由にさせてくれよ。
「初めの頃は女の子の制服を着ていなかったね。どうして女の子の制服を着ようと思ったんだい?」
「たまたまです。きっかけは特にありません」
医者の眉毛がぴくりと跳ね上がった。
「きっかけはないか……でもね。君は交通事故にあった後から女の子の制服を着始めているんだよ。きっかけはその事故にあるんじゃないかな」
は? 待て。待て待て待て。こいつは今、なんて言った?
診察室には僕と医者しかいない。とても静かだ。二人の話し声はよく通る。医者は明瞭な話し方だ。聞き取りづらくはない。聞き間違えるなんてないはず。けど、それでも、聞き返さずにはいられなかった。
「今、なんて……」
「ん?」
「さっき、なんて言ったんですか?」
「え? ああ、きっかけは事故にあるんじゃないかって」
「違う! その前」
僕の剣幕に驚きながらも医者は言った。
「君が交通事故にあってから女の子の制服を着始めている」
僕が事故にあったって? 嘘だ。そんなことはない。僕は生まれてから一度も交通事故にあったことなんてことはない。
「いつ……いつの事故ですか?」
「□月△日だよ。酔っ払ったドライバーが運転するトラックに撥ねられてウチの病院に搬送されてきたんだ」
嘘だ。嘘だ。そんなのは嘘だ。だってその日は姉さんが事故にあった日だ。僕じゃない。姉さんが事故にあったんだ。そして死んだ。いなくなった。僕の前から姿を消した。だから、セーラー服を着た。姉さんの着ていたセーラー服を着たんだ。
何を言っているんだコイツは。間違ったことを言う奴は嫌いだ。怒りがふつふつと沸きあがってくる。ムカムカする。ところ構わずぶちまけたい衝動にかられる。その感情は口から飛び出した。
「出鱈目を言うな!」
もう止まらない。止められない。一度、決壊した堤防はすぐには戻らない。溢れる感情の奔流が僕の意思とは無関係にぶちまけられる。
「嘘だ。僕は事故になんかあっていない。何を言っているんだあんたは! 僕のはずがない。絶対だ。僕が交通事故にあったなんて間違っている!」
興奮している僕とは違い医者は冷静だった。僕の変化を具に観察し、それに対処しようとしている。知性に溢れる目をしていた。ムカつく。僕のことを明らかに精神が病んだ人間としてみている目だ。今までずっと隠してきた目だ。僕のことを馬鹿にしている目だ。くそくそくそ!
僕は医者に掴みかかった。医者は僕を取り押さえようとした。華奢だと思っていたけど意外に力が強かった。違う。僕が弱かったんだ。しばらく暴れていると騒ぎを聞きつけた看護士たちが現れて僕を完全に押さえつけた。
押さえつけられた格好のまま僕は思った。自分はあれだけ激昂しても姉さんのことを話さなかった。それは良いことだ。よくやった。自分を褒めてやりたくなる。最後の最後でブレーキをかけた。だって姉さんのことは誰にも話してはいけないんだ。そう決まっている。約束したんだ姉さんと、絶対に話してはならないって。だから僕は話さなかった。あんなに激昂したのに、約束は守り通した。ねぇ、褒めてよ。姉さん。
7.
僕は入院した。表向きは手の怪我のため、本当の目的は精神科棟への入院が必要か見極めるための様子見のためだ。
気がつくと真っ白なベッドの上で、真っ白な壁を眺めていた。天上も、床も、壁も、カーテンも、どこもかしこも嘘臭いほど真っ白だ。病的なまでの白さ。おそらく清潔さをアピールしているのだろうが、白すぎて逆に精神を病んでしまいそうだ。
起き上がろうとして、自分の身体が自由に動かないことに気がついた。あれ? と思った。すぐに夢だと気がついた。こんなにも嘘臭い世界は夢以外考えられない。夢だとわかる夢をなんて言うんだっけ。えーと、確か、そう、明晰夢だ
病室のドアがノックされた。
「どうぞ」と“僕”が言った。
入ってきたのは僕に変わらず話しかけてくれる女の子だった。彼女はベッドの脇にあるパイプ椅子に腰を降ろした。
「怪我、大丈夫?」
「大したことはないよ」
また僕でない“僕”が答えた。
「――君」
彼女が僕の名前を呼んだ。すると不思議なことに“僕”は首を振った。
「じゃあ――なんだ」
彼女は別の名前を言った。女の子の名前だとすぐわかる名前だった。どこかで聞いたことがあるような気がするけど、思い出せない。
「今回のことも――のせいなんでしょう」
彼女は責めているような、咎めているような、視線で僕を見た。“僕”は「直接的ではないけどね」と曖昧に濁した。
「もう――君のこと解放してあげてよ」
解放? 何のことを言っているんだ彼女は。
「このままだと二人ともダメになっちゃうよ」
“僕”はこくりと頷いた。
「あの事故があるまで私たちはとても上手くやっていたのよ。でもあの事故が全てを狂わせてしまった。――はもう、私のことを知覚することが出来なくなっている。でも想いだけはすごく強くて、空回りしている。今回のことも空回してしまった結果よ」
“僕”は滔々と語った。自分の声なのに知らない女の子が話しているように聞こえる。
「非ユークリット幾何学では平行線が交わる。二次元上では交わらない線が、三次元方向に捻れることによって交わる。私たちはきっとそんな状態で繋がっていたのよ。その捻れが元に戻ってしまった。もう私たちは決して交わることのない平行線、けれどすぐ隣にいる。だから影響しあう」
彼女は“僕”が話していることにじっと耳を傾けている。
「再び捻れるかと期待していたけど、捻れて行ったのは――の精神だけ。あなたの言うとおりこのままだとダメになってしまう。私は――から離れなくてはいけない」
「……ごめんね」
彼女は心の底から謝っていた。まるで自分に全ての非があるように。
「どうして貴女が謝るの? 貴女が謝る必要はどこにもないわ。こっちから貴女にお礼を言う必要はあるけどね」
“僕”はしっかり彼女を見つめる。
「色々とありがとう。――の面倒を色々と見てくれて。少し壊れてしまった――が完全に壊れてしまわなかったのは貴女がいたからよ。私も元の状態に戻れるかもって夢が見れた。あとセーラー服を貸してくれてありがとうね」
彼女はふんわりと微笑んだ。
「どういたしまして。――君があたしよりセーラー服が似合うっていうのはちょっと複雑だったけどね」
沈黙。“僕”と彼女はしばし見つめあった。“僕”は彼女の顔や身体、表情を目に焼き付けようとしていた。きっと向こうも同じなのだろうと、なんとなく思った。
「それじゃ、あたし帰るよ」
彼女はパイプ椅子を引いて立ち上がった。
「うん。さよなら」
「バイバイ。マコト」
彼女は手を振って、それからドアを開いた。病室の外へ出る。ドアが閉じる僅かな間、彼女は“僕”の方を向いて、ずっと手を小さく振っていた。
マコト……僕の名前だ。
「誠。一方的でごめんなさい。でも、私たちが交わることはもうないの」
“僕”――いや、姉さんは空中に向けて呟いた。
「さようなら」
これが最後なんだ。と、気がついたときはもう遅かった。
急に視界に黒い幕が下りてくる。意識がブラックホールに引きずられていく。ああ、こちらからは何も言えない。何も伝えることができない。身体を動かすどころか、声を出すこともできない。
ならば――思おう。せめて、この僕という意識が。
――さようなら、真琴姉さん。
8.
一番古い記憶は何歳の頃の記憶だろう。物心ついたときの記憶はおぼろげで夢か、妄想か、真実か、まったく判別できない。けれど、僕の心の一番深いところにしっかりと根付いている。
赤い空、夕方。公園の砂場で、僕は砂遊びをしている。砂の山を作ってトンネルを掘っていく。さらさらとした白い砂だとトンネルはすぐに崩れて埋まってしまう。湿った黒い粘り気のある砂で山を作った。
素手で掘り進めていく。ふと、指先に何かが触れた。ビクッと引っ込める。顔を上げると、砂の山を挟んだ反対側に女の子がいた。自分と同じくらいの歳の女の子だ。女の子はにこっと笑った。
「お姉ちゃん」
と、僕は言った。僕はトンネルの中で手を伸ばした。ちょこんと指先が女の子に触れる。繋がった気がした。
僕は“お姉ちゃん”と何度も砂遊びをした。山を作る。トンネルを掘り進めていく。最後に貫通するそのとき指先が触れ合う。その感触が、見えないところで繋がっているという状況が、とても嬉しかった。
これが僕の一番古い記憶だ。姉さんと砂遊びをした記憶。しかし、おかしいことにもう一つ一番古いと思えるの記憶がある。
僕は一人で山を作る。両側からトンネルを掘る。自分の両腕をトンネルの中に突っ込み、指先を触れ合わせている。
主観と客観だ。姉がいる記憶が主観で、一人で遊んでいたのが客観だ。僕は二人で遊んでいたと思っていたけど、傍から見れば一人で遊んでいたのだろう。そして――そのことを僕自身が知っていた。
ああ、思い出した。どうして今まで忘れていたのだろう。姉さんは僕の中にしかいなかったのだ。
9.
屋上。青い空。白い雲。錆が目立つ緑のフェンス。校庭――土の茶色。
屋上には二人、僕と彼女がいる。
僕は学生服を着ている。彼女はセーラー服を着ている。僕たちは微妙な距離感を保っている。
「もしかして自殺する気じゃないよね」
「まさか。飛び降り自殺なんて他者様に迷惑がかかりまくる自殺の方法は選ばないよ」
「じゃあ、どうして屋上に忍び込んだりしたの?」
うちの学校の屋上は立ち入り禁止だ。以前、生徒が飛び降り自殺を図ったことがあってから屋上に続く扉は封鎖されている。僕たちは屋上に続く窓をよじ登ってここに侵入した。
「ここは空が近いからさ」
「うわぁ……」
彼女は失礼極まりない表情で僕を見た。
「頭、大丈夫?」
「その冗談は僕には厳しすぎるよ」
彼女は「あはは、ごめん」とほとんど悪びれた様子もなく言った。
「はい。セーラー服返すよ」
僕は手にした紙袋を差し出した。
「ん」と、彼女は紙袋を受け取った。
「一つ、聞きたいことがあるんだけど……」
「なら、あたしも聞きたいことがあるんだ」
「どうぞ」
僕は彼女に先を譲った。
「どうしてセーラー服なんて着ていたの?」
「趣味――」
彼女はぎろりと僕を睨みつけた。やっぱり納得しないか。
「――僕は姉さんの代わりに学校に来たかったんだと思う」
「自分のことなのに自信なさげだね」
「正直、ずっと夢を見ていた感じだからね」
僕はフェンスに背を預けた。天を仰いだ。
「僕にはね。双子の姉がいたらしいんだ。僕たちは双子で生まれてくるはずだったんだけど、生まれてくるときに片方は死んでしまったんだ」
「う・そ♪」
視線を戻すとにっこりと勝ち誇ったような顔をしている彼女がいた。
「そんな都合のいい設定をつくっちゃ駄目」
「だって、なにか特別な理由が欲しいじゃないか。僕は頭の中に“姉さん”がいて、ずっと二人で生きてきた。僕は姉さんが大好きだった。本当に好きだったんだ。頭の中にしかいない人物のことを本気で愛していたんだ。異常だよ。頭がおかしいとしか思えない」
彼女は淋しそうな顔をした。
「真琴のことを嘘にしちゃうの? 違うでしょう。誠君は真琴の存在が嘘じゃないから苦しかったんだよね」
まったくもってその通りだった。僕は姉さんの存在がどのような存在か思い出し、それが世間でどれほど異常か認識し、恐怖した。
自分が異端、周りと違う、異常者に見られている。医者も、看護士も、母も、父も、誰も彼も、僕のことを“おかしい人間”として見ていた。その視線は僕の心を貫いた。痛い。嫌だ。そんな目で僕を見ないでくれ。前は大丈夫だったのに、今は異常と思われることがとても恐い。
ああ、わかったよ。僕は異常だったと認める。でも、今は違うんだ。
「回復に向かいつつあります」と医者が両親に言っているのが聞こえた。皆の目も、前ほど痛くない。
姉さんの存在を否定し、弱い自分の心を護ろうとしたのだ。
「君の言う通りだよ」
「誠君が真琴の存在を否定したら、本当にいないことになっちゃうよ」
物理的には姉さんは存在していない。だが、存在していないなんてことはない。僕は姉さんの存在を克明に記憶している。五感とは違う、もう一つの感覚が姉さんの存在を感じ取っている。その言葉では表現できない感じが、そのまま大切に記憶の棚の中に仕舞われている。
僕は衒学的であろうとして失敗した弱い人間だ。そんな僕が考えたことなんて、きっと間違いだらけなのだろう。それでも僕はこう考えている。
思考と言語は切り離せない関係にあるそうだ。人間は思考するとき言語を使って思考している。もやもやと掴みどころのない“何か”を言葉という型に当てはめて考えているらしい。僕にとって、姉さんはそのもやもやとした“何か”なのだ。言葉という型に当てはめてしまうと型からはみ出た部分が消えてしまうような気がする。言葉の意味空間を少しでもはみ出した部分は、型に入れた瞬間になかったことになってしまう……そんな気がする。
「僕は姉さんの存在を覚えている。誰がなんといおうといたんだ」
口に出した。僕だけじゃなく、彼女も姉さんの存在を認めてくれている。僕は一人じゃないんだと思った。
僕の頬の上を温かい雫が滑った。僕の目が涙を流していた。僕は泣いていない。これはきっと――姉さんの涙なのだろうと思う。色々な感情が溶けている雫は、僕の頭では処理できないほど複雑な想いを告げてくる。
僕と姉さんはは救われた気がした。
学校のチャイムが鳴った。午後の授業が始まることを告げる予鈴だ。
「やばっ」
急いで戻ろうとする彼女の背中に僕は問いかけた。
「僕から一つ質問。君はどうしてこんなに僕によくしてくれるの?」
感謝をいくつ重ねても足りないほど彼女には恩を受けた。彼女がいなかったら僕は簡単に壊れていただろう。
彼女は振り向いて言った。
「他人の気がしないからね」
「え? それは――」
「あたしも愛琴だから」
と意地悪な笑みを浮かべ、「くっくっく」と笑った。
<了>