その男は温泉からあがり、気分よく旅館の廊下を歩いていた。
ロビーというより受付と言った方がしっくり来る広間に団体の客が入ってくるところだった。その団体は老若男女入り混じっていた。だが、全員不思議な似たような雰囲気を纏っていた。どこか悲壮な感じがするのだ。
不思議な団体だな、と男は思った。
すれ違うとき、団体客たちの会話が聞こえた。
「ついに“極楽の湯”にたどり着いたぞ」
「ああ、ありがたやありがたや」
極楽の湯? そんな湯船があったろうか。自分が先ほどまで浸かっていたのは「黄金の湯」だ。男は疑問に思った。
温泉の比喩として『極楽』はよく使われる。気にするほどのことでもなかったのだがその男はどうしても気になった。もしかしたら「極楽の湯」という場所がどこかにあるのかもしれない。
男は旅館の仲居を捕まえて聞いた。
「君、この旅館には“極楽の湯”というのがあるのかね」
「はぁ、そんな名前の湯船はありませんよ。でも、うちの温泉は極楽に違いありませんけどね」
と、愛想笑いを浮かべた。男は笑顔の裏に隠された動揺を見抜いていた。しつこく問い詰めると、逆に質問された。
「お客さん、“極楽の湯”のことをどこで知りました」
男は今、さっき来た団体客が話していると答えた。
「ああ、なるほど」
仲居は言った。
「そのお客さんたちは自殺ツアーの方々ですよ」
「え?」
「私が答えられるのはそれだけです」
次の日、男が見た団体客は幻のように消えていた。
<了>